羅振玉(読み)らしんぎょく

日本大百科全書(ニッポニカ)「羅振玉」の解説

羅振玉
らしんぎょく / ルオチェンユイ
(1866―1940)

中国、清(しん)末~中華民国初期の考証学者・金石学者。字(あざな)は叔言(しゅくげん)、号は雪堂。浙江(せっこう)省上虞(じょうぐ)県の人。清末、試署参事官兼京師大学堂農科大学監督となる。1911年(明治44)辛亥(しんがい)革命が起こり日本に亡命、京都に住む。1919年(大正8)帰国。一時、宣統帝(溥儀(ふぎ))の教育にあたるが、満州国成立後は参議府参議、監察院長を歴任。経学・史学に通じ、古典校訂や甲骨、銅器、木簡などの新資料の研究に従事した。とくに殷墟(いんきょ)出土の遺物について、甲骨だけでなく伴出遺物にも関心を寄せ、女婿王国維と協力して殷文化の解明に努めた。主に『殷商貞卜(ていぼく)文字考』『流沙墜簡(りゅうさついかん)』『殷墟書契』『三代吉金文存』などがある。

[太田侑子 2016年3月18日]

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朝日日本歴史人物事典「羅振玉」の解説

羅振玉

没年:1940.6.19(1940.6.19)
生年:同治5.8.8(1866.9.16)
中国読み「ルオ・チェンユイ」。中国の考古・文献学者。江蘇省山陽県生まれ。号は雪堂。もともと北京農学を教えていたが,清が滅ぶ(1911)と「遺臣」として中華民国に仕えず,かねて親交のあった内藤湖南らを頼って京都に渡り,古典の研究に従事した。帰国(1919)後満州国の官吏となり(1932),また日満文化協会の会長も兼ねたことから中国では売国奴とされるが,古典や金石文の収集では高く評価される。殷・周青銅器の収集で知られ,また甲骨文字や「敦煌文書」の研究でも初期段階での重要な業績を多く残した。著述は『羅雪堂先生全集』に網羅され,代表作には「殷墟書契考釈」「流沙墜簡」などがある。

(阿辻哲次)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「羅振玉」の解説

羅振玉
らしんぎょく
Luo Zhen-yu; Lo Chên-yü

[生]同治5(1866)
[]1940
中国,清末,民国初期の学者。浙江省上虞県の人。字は叔言。号は雪堂,貞松老人。初め農学の改良,教育制度の改善と西洋新知識の導入に尽力。宣統1 (1909) 年京師大学堂農科大学監督に就任。辛亥革命にあって日本に亡命,京都に住んだ。帰国して天津に居住し,宣統帝の師傅としてその教育にあたったが,満州国成立とともに参議,監察院長などの要職を歴任。金石学,考証学の第一人者として知られ,殷墟出土の甲骨文字に最初に注目し,その研究書『殷墟書契考釈』などがある。また敦煌発見の文書の研究も行い,敦煌学の基礎を築いたほか,明・清檔案の保存整理にも力を尽した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus「羅振玉」の解説

羅振玉 ら-しんぎょく

1866-1940 中国の考証学者。
同治(どうち)5年5月16日生まれ。辛亥(しんがい)革命で明治44年(1911)日本に亡命,京都で内藤湖南らと親交をむすんだ。殷墟(いんきょ)の甲骨文字や敦煌(とんこう)発掘の資料を研究。大正8年帰国し愛新覚羅溥儀(あいしんかくら-ふぎ)の師となり,のち満州国参議府参議,監察院長。1940年6月19日死去。75歳。江蘇省出身。字(あざな)は叔言。号は雪堂。著作に「殷墟書契」「殷墟書契考釈」など。

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デジタル大辞泉「羅振玉」の解説

ら‐しんぎょく【羅振玉】

[1866~1940]中国の考証学者・金石学者。あざなは叔言。号は雪堂。浙江せっこう上虞じょうぐの人。朝に仕えたが、辛亥しんがい革命により日本に亡命。満州国成立後は監察院長などを歴任。経学・史学に通じ、古典の校訂を行ったほか、いん文化の解明に努めた。著「殷墟書契」など。ルオ=チェンユイ。

ルオ‐チェンユイ【羅振玉】

らしんぎょく(羅振玉)

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百科事典マイペディア「羅振玉」の解説

羅振玉【らしんぎょく】

中国の考証学者。金石文,甲骨文の研究で知られる。敦煌で発見された古書古写本殷墟出土の甲骨文,内閣大庫の明清档案(とうあん)などの収集・研究に尽力。辛亥(しんがい)革命の際に日本に亡命し,京都で内藤湖南らと親交,史学の研究・著述に専念した。女婿に王国維

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精選版 日本国語大辞典「羅振玉」の解説

ら‐しんぎょく【羅振玉】

中国、清朝末期の学者。字は叔言。金石文、甲骨文の研究家。辛亥革命の時、王国維と日本に亡命。満州国設立とともにその政府にはいり、要職を歴任した。著は「殷墟書契考釈」など多数。(一八六六‐一九四〇

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世界大百科事典 第2版「羅振玉」の解説

らしんぎょく【羅振玉 Luó Zhèn yù】

1866‐1940
中国,清末・民国の学者。字は叔言,号は雪堂。浙江省上虞の人。日清戦争の影響で,農学を中心とした国力振興を考え,日本,西欧の農書を翻訳し,翻訳者養成のため東文学社を建てた。1909年(宣統1)張之洞の推薦で京師(けいし)大学堂農科大学監督に就任したが,11年の辛亥革命で女婿(じよせい)王国維とともに日本に亡命し,旧知の内藤湖南(虎次郎),狩野直喜らのいる京都に7年間滞在した。20世紀初頭の殷墟(いんきよ)や敦煌から発現した新資料の価値をいち早く認識し,その収集と整理に努力してきたが,日本滞在中に《鳴沙石室佚書》《流沙墜簡》をはじめ《芒洛冢墓(ぼうらくちようぼ)遺文》など数多くの資料集を出版した。

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世界大百科事典内の羅振玉の言及

【王国維】より

…浙江省海寧県の生れで,字は静安,号は観堂。1898年(光緒24)に上海の東文学社に入学してしだいに学才を認められ,以後羅振玉から特別に目をかけられるようになる。1901年に日本に留学して物理学校に学んだが脚気を患って翌年に帰国し,羅振玉に従って師範学校の教職に就いたりする。…

【古文書学】より

…いずれも発見されるごとに学界の注目を集め,多数の学者が研究を行い,甲骨学,簡牘(かんどく)学,敦煌学という名称も生まれた。以上の4文書群すべてに研究の先鞭をつけ,その後の発展に貢献したのは羅振玉と王国維である。解放後の中国では,さかんな古墓の発掘にともない各地から戦国・秦漢の帛書や竹木簡が大量に出土し,新たなトゥルファン文書も発掘された。…

【敦煌学】より

… 敦煌文献の紹介と研究は,1908年ペリオが収集写本のめぼしいものの目録と実物数点とを携えて北京に赴き,学者たちに展示したことに始まる。羅振玉らはさっそく《莫高窟石室秘録》《敦煌石室遺書》(ともに1909)などを出版して,これらを紹介し,その後もペリオから送られて来た写真を影印して,《鳴沙石室佚書》(1913)《鳴沙石室古籍叢残》(1917)などをやつぎばやに公刊した。これら書名にみられるように,当時の学者たちの関心の的は古佚書の写本に置かれていた。…

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