亀甲や獣骨(主として牛の肩甲骨)の上に刻された文字。その背後に確立した文字体系をそなえている点からいえば,現在知りうる中国最古の文字。獣骨を焼いて卜占(うらない)を行う法はずっと古い時期から存在したが,そこに文字を刻するのはほとんど殷代の安陽期に限られ,他に少数ではあるが,西周時代前半期の遺物も発見されている。卜占の手続の大略を述べれば,整形された亀甲や獣骨の裏面に鑽(さん)・鑿(さく)と呼ばれるくぼみを掘りこみ,その鑽の部分に焼けた木片などを押しつけて,表面に卜字形の割れ目(卜兆)を作らせる。その卜兆の出た表面に,卜占しようとした内容,ときにはその卜兆に対する王の判断と実際にいかなる結果が発生したかが,鋭い刃物でもって刻される。刻された文字には赤い顔料が塗られることもある。この卜占の記録は,王朝の聖なる記録としてまとめて保存されていたのであろうが,最終的には積み重ねたまま地中に埋められた。
この地中に埋もれた卜占の記録は,おそらく古くより出土していたと考えられるが,19世紀の末年,漢方薬の竜骨として安陽よりもたらされる甲骨の上に刻された文字が王懿栄(おういえい)ら清期末年の金石学者の目にとまったのが甲骨文発見の最初だとされる。その当初は材料がもっぱら骨董商の手を通してもたらされていたため十分に科学的な研究は不可能であったが,しかしなお劉鶚の《鉄雲蔵亀》や羅振玉の《殷虚書契前編》以下の資料の収集とその拓本による出版,また王国維の〈殷卜辞中所見先公先王考〉などに代表される先駆的な業績があり,甲骨文の資料としての価値が確認されていった。1928年に国立中央研究院歴史語言研究所による安陽殷墟の発掘が開始されて以後,甲骨文に対する研究は飛躍的に発展した。その発展の中心にあったのは董作賓(とうさくひん)であって,彼は31年に〈大亀四版考釈〉を発表して卜辞の中から卜占を主宰する貞人(ていじん)を抽出し,さらに33年には〈甲骨文断代研究例〉によって,殷墟出土の甲骨文を五つの時期に区分して編年できることを示した。五期編年の根幹は,各時期に異なった貞人グループが存在することと,祖先神たちの呼び方(称謂)の変化とであったが,文字自体に関していえば,後期になるほど文字の構造が複雑化することを例証するとともに,書風も時期ごとに変化することを示した。董作賓の各期の書風に対する評語を挙げれば,第1期(殷王の武丁の時代に相当)は雄偉,第2期(祖庚・祖甲の時代)は謹飭(きんちよく),第3期(稟辛・康丁の時代)は頽靡,第4期(武乙・文武丁の時代)は勁峭(けいしよう),第5期(帝乙・帝辛の時代)は厳整といった特色をもつ。この五期編年説に対してはいくつかの訂正説(例えば貝塚茂樹,伊藤道治らによって,董作賓が主として扱った王朝卜辞以外に,王族卜辞や多子族卜辞があって独自の書体をもつこと,また3期と4期との区分が明確にはできぬことの指摘がなされたことなど)が提出されはしたが,しかし現在にいたるまで,甲骨文研究の基礎となっていることに変りはない。
甲骨文が記録するのは,主として殷王の行動にかかわる自然祭祀や祖先祭祀,また軍事行動の可否,あるいは天候と作物の出来の良否,病気や夢や神々のたたりなどについての卜問であるが,その内容にも時期ごとに変化があり,初期には自然神崇拝の傾向が強いのに対し,後期になると祖先祭祀が体系化され,とくに顕著であるのは,ほぼ1年を1サイクルとして行われる,5種の祭儀を組み合わせた大規模な周祭が安陽期末期には完成することである。すなわち時期が下るにつれて,卜占は実際に神々の意志を問うというよりも,祭祀の手続きとして王が行う一種の儀礼となっていったのである。それは王権の性質の変化とも対応していたと考えられよう。前世紀まではほとんど伝説の領域にとどまっていた殷王朝も,祭祀資料という限定はあるがこの甲骨文の出現によって,政治,経済,文化など各方面にわたり,その具体的な状況が明らかになってきた。
なお近年,西周時代初年の卜甲・卜骨がいくつかの地点で発見されている。鑽・鑿が方形であるなど共通した特徴をもつこの時期の遺物の中でも,まとまった量の刻字を持つものとして陝西省周原出土の甲骨文がとくに注目される。周原の甲骨文は周王朝の宗廟遺跡と考えられる建物の床下から発見され,字を持つものがほぼ300片,殷末から西周前半期のもので,克殷(こくいん)以前の殷王朝と周族との関係をうかがわせる資料も含まれている。殷墟の甲骨文についての概説書としては,現在のところ陳夢家(ちんぼうか)《殷虚卜辞綜述》が最もすぐれる。また字書として孫海波《甲骨文編》がある。
執筆者:小南 一郎
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…後の周の人びとが殷とよぶようになるが,その理由は明らかではない。
[歴史]
殷王朝は,《史記》によると成湯天乙(いわゆる湯王,甲骨文では唐,大乙とよぶ)が,夏王朝の桀(けつ)王を倒して滅ぼし,創設したといわれる。夏王朝の存在は確認されないが,甲骨文の発見によって殷の存在は確認され,王系による逆算と,考古学的年代測定とにより,大乙による王朝の創立は前17世紀末もしくは前16世紀初と推定されるに至った。…
…従来,研究の対象としてはあまり顧みられなかった劇文学の研究を開拓し(《宋元劇曲史》),また詞の批評《人間(じんかん)詞話》は人口に膾炙(かいしや)している。しかし亡命後は羅振玉の勧めによって中国古典の学問に精進し,羅振玉を助けて甲骨文,金文,敦煌出土の簡牘(かんとく)など,当時はじめて世に現れた史料の整理と研究に専念した。彼は古典を駆使し,清朝考証学の流れをくむ精密な分析と抜群の着想によってこれらの新史料を解読し,史学をはじめとするあらゆる分野で多くの新知見を発表したが,なかでも注目されるのは殷墟出土の甲骨文に関する一連の研究である。…
…甲骨文を研究する学問のこと。甲骨文とは,中国の殷代に亀甲や牛の肩甲骨に文字を彫って記録した文。…
…ところが20世紀に入って,膨大な古文書群があいついで発見された。すなわち(1)殷代で占いに使われた甲骨文,(2)漢・晋の木簡,とくに西北辺境の居延から出土した居延漢簡,(3)4~11世紀初の敦煌文書および西域文書,なかでも6~8世紀のトゥルファン文書,(4)清朝宮廷に保管されていた公文書類,いわゆる明清檔案(とうあん)である。いずれも発見されるごとに学界の注目を集め,多数の学者が研究を行い,甲骨学,簡牘(かんどく)学,敦煌学という名称も生まれた。…
…そのなかで前5000年ないし前4000年の新石器文化に属する西安半坡(はんぱ)遺跡から見つかったものが最も古いとされている。しかし,これがはたして後の甲骨文字に直接結びつくものであるかどうかについては,まだ資料が少ないので確認することができない。 今日,われわれが確認することのできる最古の漢字は殷代の甲骨文である。…
…字は彦堂。北京大学卒業後,1928年に中央研究院歴史語言研究所研究員となって李済とともに安陽殷墟の発掘を主宰,甲骨文の研究にとりくむ。《大亀四版考釈》(1931),《甲骨文断代研究例》(1932)で甲骨文編年の基礎をつくり,これを発展して殷代の暦法を復元した大著《殷暦譜》(1945年)の画期的な業績をはじめ,30余年間に発表した論文,著書は数多く,甲骨学の開拓者として大きな足跡を残した。…
※「甲骨文」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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