現象学的自己理論(読み)げんしょうがくてきじこりろん(その他表記)phenomenological theory of self

最新 心理学事典 「現象学的自己理論」の解説

げんしょうがくてきじこりろん
現象学的自己理論
phenomenological theory of self

現象学的自己理論とは,ロジャーズRogers,C.R.の人格理論を示す用語で,問題や悩みを知っているのはクライエント(依頼人)自身であり,カウンセラーはその解決の手伝いをすれば良いとの考えを提唱した。すなわちクライエント中心療法(来談者中心療法,クライエント中心カウンセリングともいう)である。その骨子は,彼の代表的著作『クライエント中心療法Client-centered Therapy』(1951)に,19命題としてまとめられている。しかし,現象学的自己理論はロジャーズ独自の創造ではなく,多くの先行する研究者たちの考えを含み,とくにスニッグSnygg,D.とコームズCombs,A.W.の「現象の場理論phenomenological field theory」に負うところが多い。ロジャーズも,現象学的な立場からの人格理論(のちに人間性心理学とよばれる)であると述べている。現象学的自己理論の要点について,19命題のいくつかを通して紹介する。命題1「個人はすべて,自分を中心とした,絶え間なく変化している体験の世界に存在している」。この私的な世界は,現象の場とか体験の場などとよばれ,生命体によって体験されるものすべてを含んでいる。命題2「生命体は,経験され知覚されるものとしての場に反応する。この知覚される場は,個人にとって現実realityである」。人は,その個人が認知した主観的・意味的世界に反応するのであって,客観的・物理的世界に反応するのではない。この認知こそが,その個人にとっての唯一の現実なのである。命題4「生命体は,一つの基本的な傾向と力をもっている――それは体験のただ中にある生命体自身を実現し,維持し,増進することである」。あらゆる生命体のもつ,実現傾向actualizing tendencyを基本的な行動の動機と考えるのである。ロジャーズは次のように語る。子ども時代に,彼の家には冬用の食料としてジャガイモが蓄えられていた。地下貯蔵庫片隅に置かれたジャガイモも,季節がくれば地下室の小さな窓から差し込む光に向かって精一杯青白い芽を数フィートも伸ばすという。この芽はそのままでは花や実を結ぶことはなく枯れてしまうが,それでも過酷な環境の中で精一杯可能性を伸ばそうと闘っているのだ,と……。生命体は与えられた環境の中で,その個体を最大限実現しようと力を発揮する存在である。ジャガイモにすら実現傾向がある,ましてや人間にないはずがないと彼は主張する。

 もともと実現傾向という概念は,脳神経学者であったゴルトシュタインGoldstein,K.によって提唱されたものである。彼は,第1次世界大戦において脳損傷を負った兵士の研究から,生命体は脳の一部が損傷して機能を失っても全体としてその機能を補償し,その環境の中で最大限の機能を実現して最適な水準を保とうとする傾向をもつことを示した。実現傾向とは,人間を含めたあらゆる生命体がもっている個としての可能性を達成しようとする生得的な欲求ないし傾向であり,これこそが生物の本質と考えたのである。しかし人間は,実現傾向を後に形成する自己という枠組みを通してしか発揮することができない。これを自己実現傾向self-actualizing tendencyとよぶ。

 命題8「全体に認知される場のある部分は,しだいに自己として分化される」。命題9「環境との相互作用の結果として,とくに他者との評価的な相互作用の結果として,自己の構造が形成される――それは,『わたし』の特徴や関係についての知覚の,有機的で流動的な,しかし一貫した概念的パターンであり,そこにはその概念と結びついた価値観も含まれる」。自己とは自己概念である。自己概念self-conceptは,自分が自分自身に対して意識化し,言語化している意味・価値体系であり,たとえば「わたしは,不器用だ」とか「わたしの母親は,しっかり者だ」といったことである。このような意味づけの背後には「それがとてもいやだ」とか「それが好きだ」といった,プリミティブであるが強力な価値づけがある。自己概念は,このように自己に関する主観的な意味-価値体系である。人間は,現象の場の中で,この自己概念を内部的照合枠internal frame of referenceとして用い,自己および外界を選択的に認知している。それゆえ,ある個人の心理を理解しようとすれば,その個人の内部的照合枠,すなわち自己概念を知ることが最も有利な接近法となる。その際に用いられる方法が,受容acceptanceと共感的理解empathic understandingである。他者が語る内容を,批判も賛同もせずに「ありのまま」に受け取ることが受容であるが,これはフッサールHusserl,E.の現象学phenomenologyでいうところの判断停止(エポケー)epokhēと同様の態度である。また共感的理解とは「あたかもAさんのごとくに」感じ考えるようになることである。人間は他者になることはできない。しかし,「あたかも…ごとくに…」の方向へ接近することは可能であり,それが少しでもできたときに共感的な理解ができたという。普通,理解というと,ある個人が自己の枠組みを正しいものとして,その中で他者を判断することをいうのであるが,この立場からいえば,それは単に判断であって理解ではない。

 ところで,人間性心理学humanistic psychologyとは,ロジャーズやマズローMaslow,A.らの人格理論や臨床実践を基に,人間を生成しつつある過程としての存在と考える立場を指している。この立場は,精神分析は人間の病理を強調しすぎており,行動主義心理学は機械論的心理学であると批判した。アメリカにおいては1962年に人間性心理学会が設立され,翌年の第1回大会で次の四つの基本原則が採択された。①経験しつつある人間が第一の関心である。②人間の選択,創造性,自己実現が研究の主たる課題である。③研究課題の選択には客観性よりも意味深さが大切である。④研究の価値は人間の尊厳におかれる。このように人間性心理学では,人間性(人間の本質)human natureの肯定的側面を探究しようとした。

 次に,社会構成主義social constructionismの立場からの,ナラティブ・セラピーnarrative therapyを取り上げる。これも,現象学的自己理論の一つに位置づけられるからである。社会構成主義では,現実realityは社会的に構成され生産されるものであって,なんらかの確定的な本質をもっているものではないと主張する。現実は,社会的な関係性の中で物語られることによって認識されるから,社会的に構成されるものであると考える。たとえば,ある「精神的な病理」は,医者,患者,家族,他者といった関係性の中で,あるストーリー(物語)が物語られること(ナラティブ)によって現実化され,固定化される。ナラティブ・セラピーでは,クライエントの語りが,語り直されることによって変化を起こすことを目的にしている。固定的な「問題」に見えるものも,関係性の中で構成されているのだから,その解決も語り直しの中で起きると考えるのである。このように,自己も関係性の中に立ち現われるものであると考える点において,現象学的立場の一つである。しかし,ロジャーズのクライエント中心療法では,個人の中での意味・価値体系(自己概念)が重視されるのに対して,ナラティブ・セラピーでは,現存する関係性(たとえばセラピスト-クライエント間や,クライエントを含む家族間)の中で立ち上がってくる語り(意味・価値)を重視するところに大きな差異がある。 →現象学的心理学 →人間性心理学
〔鈴木 乙史〕

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