用田村
ようだむら
[現在地名]周東町大字用田
玖珂盆地の西南部に位置し、島田川の流域に開ける小村。周囲は上久原・下久原・差川などの萩藩領であるが、当村は岩国藩領の飛地で玖珂組に所属。
寛永二〇年(一六四三)に玖珂本郷(現玖珂町)を分けてできた村で、村名の初見は慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」。用田の地名について村内宮ヶ廻にあった十二社権現の由緒に「そも当社の古を考ふるに、伊勢国用田の住莚田権守兼遠といふ者、千引の力石といふ所に生れ、力量千人に勝れし勇者なる故、元暦二年、義経平家追討の砌、供に被
召連
候分、こゝにて暫らく御暇を給りし事、義経実記に見へたり、権守も其内にて之に留り、紀州四所の明神十二王子を勧請なし奉る」(玖珂郡志)とある。
用田村
ようだむら
[現在地名]藤沢市用田
目久尻川左岸の台地に位置し、東は葛原村、西は本郷村(現海老名市)、南は打戻村・宮原村に接する。小田原衆所領役帳には板部岡右衛門(康雄)「廿五貫文 東郡用田」とあり、永禄六年(一五六三)正月二〇日の板部岡康雄寄進状写(県史三)によれば、同氏は江島下之坊に「知行於用田郷百疋」を寄進した。同一二年三月二〇日の北条氏康朱印状(県史三)は須賀(現平塚市)から用田郷に逃れていた者の召返しを命じている。
用田村
ようだむら
[現在地名]大河内町大河
岡村の北に位置し、市川右岸の山麓に立地する。市川沿いの段丘上に耕地が開かれている。慶長国絵図に用田・よう田とみえる。領主の変遷は寺前村と同じ。正保郷帳では田方七一石余・畑方一九石余、「柴山有」と注記される。元禄年間(一六八八―一七〇四)に新田開発が行われ、福井新田村が分村した(神崎郡誌)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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