田瀬村(読み)たせむら

日本歴史地名大系 「田瀬村」の解説

田瀬村
たせむら

[現在地名]東和町田瀬

谷内たにない村の南東に位置し、さるいし川中流域両岸の北上高地西辺山間に立地。タンセ、タンセイともよぶ。古くから江刺郡へ至る交通路が開けていた。天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉奥羽仕置によって、南部氏(盛岡藩)領の南端となり、伊達氏(仙台藩)領の江刺郡と接した。同年江刺郡岩谷堂いわやどう(現江刺市)城主であった江刺重恒が没落、当村に潜居していたが、翌一九年旧臣とともに南部信直に登用され、以降藩境の守の任を負った。同年九月二五日の南部信直知行宛行状(宝翰類聚)によれば、当村の一二八石余のほか稗貫ひえぬき新堀にいぼり(現石鳥谷町)・和賀郡黒沢尻くろさわじり(現北上市)で一千五〇〇石を与えられた。江刺氏はのち当村田瀬たんせ(城)に旧臣小田代氏基を配置した。慶長一七年(一六一二)江刺隆直が土沢つちざわ城主に転封、小田代氏も土沢に転じた後、田瀬館跡の隣地(高屋敷)に番所を設け、三関氏を配して仙台藩領との物資通行を監視させた。


田瀬村
たせむら

[現在地名]福岡町田瀬

現町域最北部にあり、南は福岡村、東は下野しもの村、上野うえの(現坂下町)、北は付知つけち(現付知町)付知川を挟んで集落が点在し、四方を山に囲まれ、南北なんぼく街道が縦貫する。年未詳八月九日の原田忠政書状(田口文書)によれば、大水によって流出した材木のうち「田瀬より下」にある分は印をつけて、その場所に預けおくよう命じている。関ヶ原戦後、遠山友政(苗木藩)領となり、以後幕末まで同藩領。慶長郷帳加茂郡に村名がみえ、高二九九石余とある。


田瀬村
たのせむら

[現在地名]舘岩村田ノ瀬

塩原しおのはら村の西、舘岩川左岸にある。「会津風土記」に「田瀬」とある。畑のみの村で(貞享二年「長江庄郷村地方風俗帳」)、現在も平地が少なく、狭い傾斜地に石垣を積んで水田の畔としている。安永七年(一七七八)の高二二石余(会津鑑)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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