田野倉村
たのくらむら
[現在地名]都留市田野倉
蛇行しながら北流する桂川の右岸段丘上の平坦地に位置する。対岸は小形山村。甲州道中から大月宿で分れた富士道が村内を通り、その往還沿いに宿の集落があり、往還から隔たった東の門前と西の中野にも集落があった。田ノ倉村などとも記される(元禄郷帳など)。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控に田ノ蔵村とみえ、高二六五石余。寛文九年(一六六九)検地による高は三六八石余。石高の増加は、十日市場大堰から取水した用水の余水を菅野川に落し、朝日川と落合う井倉村地内でこれを再び取水し、猿橋宿(現大月市)地内で桂川へ落すという五ヶ堰が寛永一六年(一六三九)頃に完成したことによる。
田野倉村
たのくらむら
[現在地名]南那須町田野倉
烏麦村の東にあり、東は岩子村・大金村。村の北東部を荒川が流れ、同川支流の隅川が中央部を北東流する。南西部は丘陵地となっている。田之倉村とも記した。慶長五年(一六〇〇)旗本大田原領となり、以後同領で幕末に至る。慶安郷帳では田高一三二石・畑高七〇石(ただし都合高は合わない)。用水は荒川・隅川・長者川などを利用。天保郷帳では高五二四石余、改革組合村では家数一八。享保年間(一七一六―三六)には奥州街道白沢宿(現河内郡河内町)の助郷を勤めている(「白沢宿御用留」宇加地太美雄文書)。「大日本地名辞書」は古代那須郡全倉郷(和名抄)を谷倉の誤記とし、当地に所在比定する。
田野倉村
たのくらむら
[現在地名]松代町田野倉
鯖石川上流右岸、東は仙納村、下流対岸は莇平村。天和三年郷帳では田之倉村とあり、高一七石八斗余、反別田九反余・畑屋敷一町六反余・山林三反余・青苧畑一反余で、漆木二六本。江戸時代後半地滑地の新田開発が進み、安永九年(一七八〇)の新田検地では高二〇石八斗余。明治五年(一八七二)の戸数五三。貞享五年(一六八八)の年貢皆済目録(国立史料館蔵)では米四石五斗余を納めるほか、大豆金納として下銀五匁三分六厘、荏胡麻代ならびに諸役金納として上銀六匁六分八厘とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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