もんじゅ(読み)もんじゅ(英語表記)Gaspard Monge

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「もんじゅ」の意味・わかりやすい解説

もんじゅ

日本原子力研究開発機構高速増殖炉原型炉。名称は釈迦仏の左脇侍の文殊菩薩にちなんだ。電気出力 28万kW。天然ウラン(→ウラン)に約 0.7%しか含まれないウラン235を燃料として消費する一般的な軽水炉に対し,高速増殖炉は発電中に,残りの約 99.3%のウラン238を,核分裂連鎖反応を引き起こすプルトニウム239(→プルトニウム)に順次,転換する。使用済み燃料を再処理して新たな燃料を創出できるため,増殖炉と呼ばれる。核分裂で生じる中性子を高速のまま利用するため,減速効果のある水の代わりに高温によって溶けた液体ナトリウム冷却材として使う。「もんじゅ」は,日本原子力研究開発機構の前身,動力炉・核燃料開発事業団によって福井県敦賀市で 1985年に着工され,1991年に機器据え付け完了。1994年に初臨界(→臨界)を迎えたが,1995年,性能試験のための運転中に二次冷却系配管でナトリウム漏洩事故が発生(→原子力発電所事故)。事故当初,ナトリウムが建物内に飛散する様子を撮影していたにもかかわらず公表せず,地元住民らの信頼を大きくそこねた。2010年に性能試験を再開したが,約 2ヵ月間の基本試験を終えたのち,炉内中継装置と呼ばれる燃料棒交換用の装置を原子炉容器内に落下させる事故を起こし再び停止した。2012年には保安規定に基づく機器の点検漏れが約 1万個あったことなどが発覚し,2013年,原子力規制委員会の出した改善命令により,すべての機械の安全管理体制の見直しを行なうまで運転再開準備作業に着手できなくなった。

モンジュ
Monge, Gaspard

[生]1746.5.10. ボーン
[没]1818.7.28. パリ
射影幾何学を開拓したフランスの数学者。ボーンとリオンのオラトリオ会の学校に学ぶ。メジエールの士官学校の教官になろうとしたが,この学校は貴族の学校で,父が行商人であったため,製図工としてしか採用されなかった。しかし勤めているとき,要塞に大砲を据付ける問題を,それまでのような長たらしい計算によらないで,簡単な幾何学的作図を用いて解決し,その才能を示した。その結果,教官に採用され,画法幾何学を中心に,数学,物理を教えた (1768~83) 。パリに出て,海軍士官候補生の試験官となり (83~89) ,フランス革命が起ると革命支持者として,新度量衡制度委員会の委員に任命され (91) ,海軍大臣をつとめた (92~93) 。 1794年にはエコール・ポリテクニクの創設に参加し,創設後はこの学校の校長となり,また画法幾何学,解析幾何学微分幾何学の講義をした。ナポレオン1世に優遇され,そのエジプト遠征にも参加して,エジプトの文化発展のための諸機関の創設を助けたが,1814年,ブルボン王朝が復活すると,役職から追放された。エコール・ノルマル・シュペリュール (高等師範学校) での講義をまとめた『画法幾何学』 (99) と,エコール・ポリテクニクでの講義に基づく『解析学の幾何学への応用』 (1801) は,前者は射影幾何学,後者は解析幾何学を確立したテキストとされている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「もんじゅ」の意味・わかりやすい解説

モンジュ
もんじゅ
Gaspard Monge
(1746―1818)

フランスの数学者。ボーヌの職工の家に生まれる。初め工兵士官学校を志したが、職人の子弟は入学できないという規定があり、付属の技術下士官を養成する学校へ入った。モンジュは、三次元の立体を、形、位置、幾何学的性質が量的に正確に一見してわかるように二次元的に表現する方法として「投影の方法」を用い、この方法に数学的根拠を与え、あらゆる場合に適用できるように理論づけた。しかし軍事上の理由で公表を許されなかった。1780年パリに招かれ、流体力学や気象学の講義を行うなかで、自己の樹立した学問を公表し、学界にその名を知られた。

 1789年のフランス革命に参加し、ジャコバン党員となった。1792年8月10日、コンドルセの切望によって海軍大臣になったが、翌1793年辞職し、新たに設置された高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)の教授となり、画法幾何学を講義。また、1794年に設立された理工科大学校(エコール・ポリテクニク)で、画法幾何学、曲面論、空間曲線論を講義した。1796年モンジュは、ローマ法王からフランスへ譲渡された絵画と彫刻とを受け取るためにイタリアへ派遣され、このときにナポレオン・ボナパルトを知った。ナポレオンが皇帝になると上院議員になり、伯爵を授与されるほどの信頼を得た。しかし、ナポレオンが失脚し、ルイ18世が王位についた際、モンジュは新政府に忠誠を誓わず、公職から追放され、1818年7月28日にパリの一隅の陋屋(ろうおく)で寂しく他界した。

[小堀 憲]

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