盛世滋生人丁 (せいせいじせいじんてい)
shèng shì zī shēng rén dīng
中国,清代の壮丁(16~60歳)のうち,定額をこえるため丁銀徴収を免除された人丁。清朝の租税は,はじめ明朝をうけつぎ,地銀・丁銀の2本立てであり,壮丁登録(編審)は,はじめ3年に1回,1656年(順治13)から5年に1回行われた。しかし官僚・郷紳の丁銀免除特権の乱用,富裕多丁戸の壮丁数ごまかし,貧困化した農民の丁銀未納など諸要因により,壮丁登録は混乱し,丁銀の公正な徴収は困難であった。そこで1712年(康熙51),清朝は前年の丁数2462万を定額として固定し,以後の新増加分の壮丁は盛世滋生人丁と名付けて帳簿を別にし(盛世滋生戸口冊),翌13年から丁銀を免除することとした。定額内の人丁が死亡した場合は,その戸あるいは親族,同地域の人丁から補充した。このように丁額・丁銀を固定化したことが,16年からはじまる地丁併徴という重要な租税改革の実施を可能にしたし,また丁銀を免除したことによって,その後の盛世滋生人丁数は比較的順調に増加をみた。
執筆者:北村 敬直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
盛世滋生人丁
せいせいじせいじんてい
sheng-shi zi-sheng ren-ding; shêng-shih tzǔ-shêng jên-ting
中国,清代の丁賦 (人頭税) を免除された壮丁 (16~60歳) 。明末の一条鞭法は地賦と丁賦の2本立てであったが,清初の丁賦額の増徴で編審 (丁賦を割当てる実数調査) の不正報告が多くなり,その矛盾も生じたのでこれを是正するため,康煕 51 (1712) 年に前年の徴収銭糧冊の丁賦額 (2462万人) をもって据置き,新たに生れてくる壮丁 (盛世滋生人丁) には課税しない方針を定め,翌 52年から実施した。しかし編審の際,滋生丁も調査の対象となり,賦役黄冊 (徴税を目的とする戸籍簿) とは別に「盛世滋世戸口冊」が作られた。これにより丁賦を固定したことが,地丁銀成立の前提となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
盛世滋生人丁
せいせいじせいじんてい
中国、清(しん)代の壮丁(16~60歳)のうち、定額を超えるため丁銀を免除した人丁。丁銀徴収のため、壮丁の登録(編審)を行ったが(5年に1回)、官僚、郷紳の丁銀免除特権の乱用、富裕多丁戸の丁数ごまかし、貧困農民の丁銀未納などにより、登録は混乱し、丁銀の公正な徴収は困難であった。そこで1712年、清朝は、前年の丁数2462万を定額として固定し、新増加分の壮丁は盛世滋生人丁と名づけて、翌13年から丁銀を免除することとした。定額内の人丁が死亡した場合は、その戸内あるいは親属、同地域から補充した。丁額、丁銀額を固定化したことが、1716年から始まる租税の大改革(地丁併徴)の実現を可能にした。
[北村敬直]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例