中国,明代の戸籍簿,同時に租税台帳を兼ねた。単に黄冊ということも多い。1370年(洪武3)明朝は元末の戦乱によって乱れた戸籍を整理するため,農民に戸帖を配布し,それに郷里,人丁数,姓名,年齢などを記入させ戸籍の作成に着手した。こうしたことを基礎に81年にいたり全国いっせいに賦役黄冊の作成が命ぜられた。そしてこの黄冊作成の単位として編成されたのが里甲制である。黄冊には里を単位として各戸の家族の氏名,年齢,田土,家屋などが記入された。この帳簿は同じものが4部つくられ,州県ごとにまとめて1部は府に,1部は布政司に置き,残る1部は中央の戸部に送り,ここに保存された。その表紙に黄紙を用いたので黄冊と名づけられたという。黄冊は戸籍であると同時に租税・徭役割当ての原簿でもあり,国家にとって最重要資料でもあったので,81年を最初として10年ごとに改訂され,明朝滅亡まで27回の編造が行われた。しかし明中期以降は調査が十分に行われず,記載の信用度には疑問が持たれている。
執筆者:谷口 規矩雄
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中国、明(みん)代の戸籍台帳で租税台帳をも兼ねたもの。戸部へ送られた台帳の表紙に黄色い紙が用いられたので黄冊ともいわれる。1381年、明の初代皇帝洪武(こうぶ)帝(朱元璋(しゅげんしょう))は黄冊の編纂(へんさん)を全国に命じた。以後、戸籍、田土などの移動に応じてほぼ10年ごとに改編されたが、明の中期以降はしだいに実状にあわない形式的なものとなった。黄冊は里甲(りこう)ごとにつくられ、里長、甲首がその事務にあたった。戸ごとに丁口(ていこう)、田土、財産、税糧などを記入し、同一の戸で他の里に田土を所有する場合にも黄冊中に記入された。里で作成された台帳は、州県、府、布政司ごとにまとめられ、戸部へ送られ、戸部では全国から集められた黄冊をもととして全国冊を作成した。黄冊は戸籍であるとともに、田賦や徭役(ようえき)を割り当てるための原簿としてつくられたものであり、各戸の田土の所有関係も黄冊を通じて確認された。黄冊が戸を単位として作成されたのに対し、魚鱗図冊(ぎょりんずさつ)は一筆ごとの土地を単位として作成された。
[鶴見尚弘]
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… ところで洪武帝の独裁体制の最も重要な基礎となったのは農民支配の強化であった。その方法として彼は81年,全国一斉に魚鱗図冊(土地台帳)と賦役黄冊(ふえきこうさつ)(戸籍資産台帳)を作成させた。とくに賦役黄冊は人民各戸の土地所有額,労働人口の変動などを記録したもので,以後10年ごとに改編され,明一代を通じて租税・力役課税の基本資料となった。…
… 宋代には五等丁産簿の類が重視され,主戸と客戸の別が明記され続けたが,元代には戸の種類が多様化し類別された戸計が作られた。明代には10年ごとに110戸の里甲を通じて賦役黄冊が作られ,全国から都に申報された黄冊が南京の後湖の倉に百数十万冊積貯されるに至った。清初になると5年ごとに黄冊を作ったが,地丁併徴により必要性を減じ乾隆年間(1736‐95)に廃止して,保甲による戸口簿を編するにとどまった。…
※「賦役黄冊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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