日本大百科全書(ニッポニカ) 「盧植」の意味・わかりやすい解説
盧植
ろしょく
(?―192)
中国、後漢(ごかん)末の官僚。字(あざな)は子幹(しかん)。涿(たく)郡涿県(河北(かほく)省涿県)の人。若くして鄭玄(じょうげん)とともに馬融(ばゆう)に師事した。霊帝(れいてい)期のはじめ博士(はくし)となり、以降、九江太守(きゅうこうたいしゅ)、廬江(ろこう)太守を歴任して異民族を平定、のち侍中(じちゅう)(皇帝の近侍官)、尚書(しょうしょ)(内閣官房)に転じた。性格は剛毅で文武の才を兼ね備え、世を救おうとする志を抱いていたという。「入りては相(しょう)(宰相)、出でては将(しょう)(将軍)」と称される典型的な儒将(じゅしょう)(儒教の教養を身につけた将軍)である。同郡の劉備(りゅうび)のほか、公孫瓚(こうそんさん)も盧植に学んだ。彼らは儒教のほか、広く軍事全般を学んだのであろう。黄巾(こうきん)の乱の際には、北中郎将(ほくちゅうろうしょう)として黄巾の総帥である張角(ちょうかく)を破ったが、戦果の確認に来た宦官(かんがん)に賄賂(わいろ)を贈らなかったため、逆に罰せられた。のちに董卓(とうたく)の皇帝廃立に抗議して免官され、袁紹(えんしょう)の軍師となったが、直後に没した。著書に、狭義の礼に留まらず国家制度や政治・法律にまで及ぶ理論的な記述がある『礼記(らいき)』という儒教経典の解釈をまとめた『礼記解詁(らいきかいこ)』がある。
[渡邉義浩]
『渡邉義浩著『「三国志」軍師34選』(PHP文庫)』