矢ノ目(読み)やのめ

日本歴史地名大系 「矢ノ目」の解説

矢ノ目
やのめ

[現在地名]岩沼市下野郷 矢野目

下野郷しものごう村の北東部を占める集落で、南を五間ごけん(前川)が流れる。かつては大同野だいどうの村といったが、寛永一九年(一六四二)検地の際下野郷村の内となり、矢ノ目と改められたという(明治五年「御用留」佐藤三郎家文書)伊具いぐ小斎こさい(現丸森町)の領主佐藤勝信が元和元年(一六一五)の大坂出陣後隠居して名取郡矢ノ目の地に住し、その後を継いだ奥山氏の知行地となった(仙台藩家臣録)。寛文年間(一六六一―七三)奥山常信は柴田郡村田むらた(現村田町)より当地に移り、その子常尚が磐井いわい藤沢ふじさわ本郷(現岩手県東磐井郡藤沢町)へ所替となるまで同氏の在所であった(伊達世臣家譜)。所替の時期は元禄一一年(一六九八)とも(同書)、同九年ともされる(「万留書」小野寺亀作家文書)


矢ノ目
やのめ

[現在地名]丸森町小斎 堂畑

小斎こさいの北西部、阿武隈川に近い一帯。中世末の伊達・相馬両氏による係争の地で、「奥相茶話記」に天正四年(一五七六)伊達晴宗・輝宗父子が「矢野目」に陣取ったとある。同一〇年八月輝宗・政宗親子は角田かくだ城より金津かなづ(現角田市)を経て「小斎ノ内矢目」に陣を進め、相馬義胤と対峙した(性山公治家記録)


矢ノ目
やのめ

天文二二年(一五五三)晴宗公采地下賜録によると、鹿俣助七郎が「北条さハしりの分、西やのめ一けん、すなこ田在家一間」その他を安堵されている。天正一三年(一五八五)北条段銭帳には、助ひやうへ、藤兵衛の両名が「にしやの目千六百苅」分として四〇〇文を差出し、湯村九郎左衛門が「矢のめゆの村九郎さ衛門分三千苅」について七五〇文を出している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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