矢上宿(読み)やがみしゆく

日本歴史地名大系 「矢上宿」の解説

矢上宿
やがみしゆく

[現在地名]長崎市矢上町

江戸時代、長崎路に置かれた二五ヵ宿の一つ。西の日見ひみ宿まで一里、長崎まで三里で、北東方は三里半の栄昌えいしよう宿(現諫早市)に通じ、さらに諫早家の諫早いさはや市中に至る。諫早領内であるため諫早三宿とも称され、長崎奉行や長崎警備の諸藩およびオランダ商館長などの通行路にあたり、諫早家は役屋敷を置いて番頭級の家臣を配し、往還関門を設け、番所を置いた。また上使屋も設置された。慶安二年(一六四九)当時は長崎路の肥前佐賀藩領内一四ヵ宿駅の一つとして機能し(肥前国道法帳)、「長崎江之通路、本通宿駅」であった(「泰国院年譜地取」天明三年六月・七月条)。また佐賀藩領内では本陣の機能を兼ねた御茶屋が藩主直営のかたちで運営され、矢上にも慶安五年までには設置された(「鳥ノ子御帳」鳥栖市史資料編)。文化九年(一八一二)一一月、伊能忠敬一行は「矢上駅問屋場」を通過(伊能忠敬測量日記)。享和三年(一八〇三)の郡村仮名付帳に矢上町の口留番所が記される。享保一七年(一七三二)の高来郡宿継郡継仕組覚(諫早日記)によれば、矢上宿継所料米は三宿同額の四六石五斗余で、宿継別当給七石、立夫六・立馬二、不足があれば郷内より寄せ、佐賀藩主や長崎奉行らの通行に際しては助郷役は一宿に一〇―二〇人を寄集めて賄ったが、奉行・大名多人数の通行の場合は宿継ぎだけでは不足するので、郡継ぎにより対処した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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