矢川村
やがわむら
[現在地名]名張市矢川
宇陀川を挟んで安部田村の南西に位置し、一部を大和国に接する。宇陀川や赤目川の氾濫原の広い低平地をひかえ、人家は主に丘陵部に集散在する。長久二年(一〇四一)三月五日の藤原実遠公験紛失状解案(東大寺文書)に実遠先祖相伝の領所として「名張郡周知郷字箭河」があり、大半は荒野であった。同四年三月一六日に実遠は「限東山、限南山、限西宇陀川、限北箭川」の地を禅林寺座主深観に売却するが(「藤原実遠所領売券案」同文書)、この地は永承六年(一〇五一)国判によって不輸地の箭川庄となっている(同年三月八日「僧都覚源房牒案」同文書)。天喜四年(一〇五六)二月二三日の藤原実遠所領譲状案(東南院文書)に「矢川村」がみえる。
矢川村
やがわむら
[現在地名]福山市山野町矢川
山野村の西に位置し、北西は神石郡。北東は馬乗山麓の山野村原谷に出る山間の小盆地に発達した集落。天治年間(一一二四―二六)鎮座と伝える塩川明神や正元元年(一二五九)創立という浄土真宗本願寺派正明寺などがあり、相当古くより集落をなしていたと考えられる。正明寺は最初野呂矢川に創建されたものか、同所に正明寺屋敷と称する地があって敷石などが散乱している。伝えによると開山の真海は渡辺綱の子孫で、父真済とともに中国布教に下って山南(現沼隈郡沼隈町)の光照寺を開いた明光の命を受け、矢川庄谷川の里に一宇を建立、谷川山正明寺と号したのに始まるという。
矢川村
やがわむら
[現在地名]下仁田町西野牧
鏑川最上流部の谷筋に位置し、東南は根小屋村、北は和美峠を越えて信州馬取萱村(現長野県北佐久郡軽井沢町)、西は矢川峠および香坂峠を経て信州香坂新田村(現長野県佐久市)に接する。近世はおおむね幕府領。寛文四年(一六六四)の信州発地村(現軽井沢町)との山論裁許状(軽井沢町志)に村名がみえる。寛文郷帳には元禄郷帳で枝村とされる大栗村が別記され、村高は両村合せて五八石余ですべて畑方、当村には御巣鷹山があった。江戸後期の御改革組合村高帳では一九八石余、家数一五八とある。
矢川村
やがわむら
[現在地名]安岐町矢川
安岐川の支流朝来野川が安岐川本流に合流する地域。安岐川が村の南を東流し、丘陵に挟まれた細長い谷底村。南は山浦村、北は弁分村、西は中野川村。小倉藩元和人畜改帳に野川村とみえ、高一三八石余、家数二八、うち百姓七、庭屋・牛屋二〇、人数五〇、うち百姓七・名子七、牛一一。正保郷帳では安岐郷に属し、田方七六石余・畑方三三石余で、柴山有・新田有と注記される。天和二年(一六八二)杵築藩松平英親の弟松平重長の分知領となり、矢川村を含む八ヵ村は両子組に属した。大庄屋は山浦村の河野氏で、杵築城下に分知奉行の浅井氏が常駐していた。
矢川村
やがわむら
[現在地名]松阪市京町・京町一区
鎌田村の南にあり、西は松坂町に続く。村域内を愛宕川が流れる。松坂の地はもともと矢川と称したともいわれ、矢川村雨龍天王社由緒(「御守屋旧記」桜井氏蔵)に「元来松坂は天正年中迄矢川之庄と申候」とある。御守屋記録(松阪市史編さん室蔵)の文明五年(一四七三)九月の記載に「矢川庄神楽司 御守屋侍従」とあり、同書天正一八年(一五九〇)一月の山村氏神之事にも「飯高郡矢川庄神楽司」と記され、天文二〇年(一五五一)条には、矢川村庄、矢川村といった記載もみられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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