新撰 芸能人物事典 明治~平成 「石井好子」の解説
石井 好子
イシイ ヨシコ*
- 職業
- シャンソン歌手 エッセイスト
- 肩書
- 石井好子事務所主宰,日本シャンソン協会会長
- 生年月日
- 大正11年 8月4日
- 出生地
- 東京市 神田区(東京都 千代田区)
- 学歴
- 東京府立第六高女(三田高)〔昭和14年〕4年修了 東京音楽学校(東京芸術大学)声楽専科〔昭和17年〕卒
- 経歴
- 衆院議長を務めた石井光次郎の二女で、母方の祖父は実業家・政治家の久原房之助。東京・神田で生まれ、2歳から大森で育つ。6歳からピアノを習うが、やがて歌の方に魅力を感じ、東京音楽学校(東京芸術大学)の声楽専科に入学。同期には指揮者の森正や、笹田和子、内田るり子らがおり、ウーハーペーニヒからドイツ歌曲を学んだ。昭和17年戦争のため学校を繰り上げ卒業すると、白百合高等女学校の音楽教師となり、18年日向正三と結婚。20年の敗戦後、夫の勧めでニュー・パシフィック・オーケストラの専属歌手としてジャズを歌い始め、その解散後は渡辺弘とスターダスターズに参加。森山久やティーブ釜范からジャズを歌う際の発音を習った。22年毎日ホールで初のリサイタルを開催。23年日向と離婚。25年米国へ留学。26年シャンソン歌手のジョセフィン・ベーカーから「シャンソンを学びたいならパリへいらっしゃい」と誘われ、渡仏。27年パリの名門パスドックでデビュー。28年にはモンマルトルのキャバレー、ナチュリストのレビューの主役として1年間出演。フランスでは義兄の妹である朝吹登水子と同居し、30年帰国。帰国後、初のレコード「あの人に貰った花」をコロムビア、「君去りなば」をビクターから発売したが、再び日本を離れ、しばらく世界各地で活動。33年NHK「紅白歌合戦」に初出場。以来、4回連続出場。36年石井音楽事務所を設立。52年に閉鎖するまで岸洋子、加藤登紀子らを育て、イヴェット・ジロー、アルフレッド・ハウゼ・オーケストラなど多くの外国人歌手を招聘した。また、同年以来、毎年7月14日に日比谷野外音楽堂でパリ祭を開催、プロデューサーを務め、シャンソンの魅力を大衆に伝えた。37年小学校の同級生であった土居通夫と再婚。63年12月には日本人シャンソン歌手としては初めて、パリ・オランピア劇場に出演。平成2年同劇場で日本人初のリサイタルを開いた。17年活動60周年の記念リサイタルを開催。エッセイストとしても知られ、昭和38年「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。他の著書に「女ひとりの巴里ぐらし」「想い出のサンフランシスコ・想い出のパリ」「装歌―マイソング・マイコスチューム」、自伝「いつも夢をみていた」「すべて歌にこめて」「限りない想いを歌に」「私は私」などがある。また、昭和62年台湾で開かれたマスターズ水泳大会の平泳ぎ50メートルで優勝した経験を持つ。
- 所属団体
- 日本シャンソン協会
- 受賞
- フランス芸術文化勲章オフィシエ章〔昭和47年〕,紫綬褒章〔昭和62年〕,フランス芸術文化勲章コマンドール章〔平成4年〕 日本エッセイストクラブ賞(第11回)〔昭和38年〕「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」,モンマルトル名誉市民〔昭和47年〕,日本文芸大賞(特別賞 第6回)〔昭和61年〕,東京都文化賞(第6回)〔平成2年〕,ダイヤモンドレディ賞(第7回)〔平成4年〕,ルイーズ・ポメリー賞(第6回)〔平成6年〕,スポニチ文化芸術大賞(優秀賞 第16回)〔平成20年〕,日本レコード大賞(功労賞 第50回)〔平成20年〕
- 没年月日
- 平成22年 7月17日 (2010年)
- 家族
- 夫=土居 通夫(ブリヂストン液化ガス常務),父=石井 光次郎(衆院議長),姉=朝吹 京(ストーンウェル社長),弟=石井 公一郎(ブリヂストンサイクル会長),石井 大二郎(昭和海運社長),祖父=久原 房之助(実業家)
- 親族
- 義兄=朝吹 三吉(慶応義塾大学名誉教授)
- 伝記
- 日本の貴婦人限りない想いを歌に―私の履歴書すべて歌にこめて―シャンソンと私この人に聞く―エコール・ド・ロイヤル〈1〉 稲木 紫織 著石井 好子 著石井 好子 著石井 好子,杉村 春子,太地 喜和子,高峰 三枝子,大川 達雄 著(発行元 光文社日本経済新聞社文化出版局学生社 ’04’91’89’87発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報