日本歴史地名大系 「石井庄」の解説
石井庄
いしいのしよう
頸城郡にあった奈良東大寺領初期庄園。天平勝宝五年(七五三)四月九日付の条里坪付等が存在しているので(大治五年三月一三日「東大寺諸庄文書并絵図目録」東大寺文書)、成立は八世紀半ばと思われる。天暦四年(九五〇)一一月二〇日の東大寺封戸庄園并寺用雑物目録(東南院文書)に「頸城郡石井庄田六十五町一段七十四歩」と出るが、長徳四年(九九八)の同寺領諸国庄家田地目録案(同文書)では石井庄田が
石井庄
いしいのしよう
石井庄
いしいのしよう
文治二年(一一八六)の勧学院政所下文(春日神社文書)に「当庄者本領主桜島重経譲嫡男経成、又経成譲外孫阿闍梨玄信、次玄信譲与甥弟子尋珍畢、既二百余歳之間、先祖相伝更無妨(下略)」とあるので、もと桜島重経の私領であり、以来相伝されてきたことがうかがえる。
この下文は、尋珍の時行俊なる者が、「寄事於大峯縁起」として、当庄は「葛上郡限東小山、限南新井郷、限西葛木峯、限北興田郷」内であるが、この四至内は「役行者誕生所」であり、したがって山伏長円らが知行してきたところ、延久(一〇六九―七四)以後、桜島重経が押領したものであると申立てたので争論となり、ここにその裁定が下されたものである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報