日本歴史地名大系 「石岡村」の解説 石岡村いしおかむら 茨城県:北茨城市石岡村[現在地名]北茨城市中郷(なかごう)町石岡松井(まつい)村境を東流してきた大北(おおきた)川が大きく屈曲して東部を北東へと流れる。その流域に平地が開け、西部は山が連なる。南は松井村・福島(ふくしま)村。正和五年(一三一六)の後伏見上皇院宣(浄智寺文書)に「常陸国石岡村内三会寺」とあり、常陸国赤浜妙法寺過去帳の応永三三年(一四二六)に「妙位尼石岡」とみえ、文禄四年(一五九五)の岩城領検地目録(静嘉堂文庫蔵)には「六百三拾石四斗三合 同(竜子山分)石岡村」とある。 石岡村いしおかむら 静岡県:引佐郡細江町石岡村[現在地名]細江町三和(みわ)金指(かなさし)村(現引佐町)の東に位置する。天正一七年(一五八九)七月七日、徳川家は「石岡」の百姓中に宛て七ヵ条の条規を定めている(「徳川家七ヵ条定書写」御庫本古文書纂)。正保郷帳では田方一三一石余・畑方三〇石余、旗本金指近藤領五一石余・旗本花平(石岡)近藤領一一〇石余の相給で、ほかに八幡(現八幡神社)領一石余がある。領主は変化なく幕末に至る。「遠淡海地志」によると家数四〇。明和六年(一七六九)気賀(けが)宿助郷のため人足七人を拠出、賃代二五〇匁を受取った(気賀宿文書)。 石岡村いしおかむら 青森県:五所川原市石岡村[現在地名]五所川原市石岡津軽平野北部、東は唐笠柳(からかさやなぎ)村、西は十(と)川を境に喰川(しよくかわ)村、南は姥萢(うばやち)村、北は吹畑(ふきはた)村、南東は二本柳(にほんやなぎ)村に接する。貞享元年(一六八四)の郷村帳に寛文四年(一六六四)以後の新田として二二〇・三石とある。貞享四年の検地帳は田方八町五反八畝三歩、屋敷を除いた畑方二町四反三畝一六歩、田畑屋敷合せて一一町一反一畝一九歩、村高九三・二二一石と記す。 石岡村いしおかむら 山形県:東置賜郡高畠町石岡村[現在地名]高畠町石岡川沼(かわぬま)村の北西、吉野(よしの)川と和田(わだ)川下流に挟まれ、集落は米沢街道の西側に広がる。近世初期の邑鑑や蒲生氏高目録帳に村名はみえず、元和期(一六一五―二四)に北条(ほうじよう)郷代官吉見次右衛門が開いたという(享保八年「当国覚書」沼沢文書)。江戸時代を通じ米沢藩領。上杉領村目録によると高七三〇石余。本免一ツ一分、反別は田三〇町二反余・畑三三町二反余(安永八年改)、家数三一・人数一八一、馬二六。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by