茨城県の中央部にある市。2005年10月旧石岡市と八郷(やさと)町が合体して成立した。人口7万9687(2010)。
石岡市南東部の旧市。1953年高浜町を編入し翌年市制。人口5万2568(2000)。市域の大半は台地に広がり,南東部は霞ヶ浦高浜入に臨む。古くから開け,国指定史跡の舟塚山古墳がある。古代に常陸国府が置かれ,国分寺,国分尼寺も建立された(跡地はともに特史)。江戸時代には,水戸徳川家から分かれた府中藩松平氏の陣屋が置かれて平村と呼ばれるようになり,また高浜は霞ヶ浦水運の拠点として栄えた。1869年(明治2)府中藩は石岡藩,平村は石岡町となる。95年常磐線が通じ,1924年のちの鹿島鉄道(2007年廃止)の起点となったが,水戸,土浦の商圏拡大に影響され,商業機能は伸び悩みを続けてきた。清酒,しょうゆ,みその製造が200~300年の伝統を保つ反面,特産の桐たんすは生活の洋風化,職人不足で往時の面影をなくしている。70年代以降,市域北西部に造成した工業団地では京浜地区から移転した機械工業が操業し,また近年は金属工業が盛んになっている。農業面では台地に広がる栗,梨の園地に特色がある。近年,宅地開発も著しい。
執筆者:中川 浩一
石岡市北西部の町。旧新治(にいはり)郡所属。人口3万0551(2000)。筑波山地に囲まれた柿岡盆地に位置し,中央を恋瀬川が南流する。中心集落の柿岡は江戸時代に恋瀬川水運の最北の河岸が置かれ,山根地方の物資の集散地としてにぎわった。古くから畑作を中心とする農業が営まれ,現在も養豚などの畜産,梨,栗,柿などの果樹栽培が盛んである。またミカンの商業的栽培の北限といわれる。自然休養村事業や筑波パープルラインの開通(1974)とあいまって観光農業の振興も図られている。上青柳の羽生家住宅(重要文化財),浦須の佐久良東雄(さくらあずまお)旧宅(史)のほか,部原(へばら)には常陸国分寺・国分尼寺の瓦を焼いたという窯跡〈瓦塚〉がある。
執筆者:千葉 立也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
茨城県中央部にある市。1953年(昭和28)石岡町が高浜町を編入、1954年市制施行。同年三村(みむら)、関川村を編入。2005年(平成17)新治(にいはり)郡八郷町(やさとまち)を合併。JR常磐(じょうばん)線が通じる。同線から鉾田(ほこた)に分岐していた鹿島(かしま)鉄道は2007年廃止となった。常磐自動車道、国道6号、355号が走る。古く常陸国府(ひたちこくふ)が置かれ府中と称した。鎌倉時代に大掾資幹(だいじょうすけもと)の居館を石岡城と称し、のち府中城という。江戸時代は府中藩(石岡藩)松平氏の城下町。1869年(明治2)石岡町と改称。南部の中心域は筑波(つくば)山地東側の台地にあり、恋瀬(こいせ)川と霞ヶ浦高浜入(かすみがうらたかはまいり)で二分され、その北部に市街地、東側は園部(そのべ)川、南部は出島(でじま)の台地に続く。北部は恋瀬川の流域に筑波山塊に囲まれた小盆地が発達。酒、みそ、しょうゆなどの醸造業が発達し、とくに酒は「関東の灘(なだ)」といわれた。製糸、アルコール、乳製品、桐(きり)製品など農産工業が盛んであった。1938年(昭和13)に集団工場を設け、1972年柏原(かしわばら)工業団地も完成し、電線、電機、時計、食品などの近代工業も発達した。また、クリの大産地でナシも産する。恋瀬川河口の高浜は江戸時代に栄えた港で、昭和初期まで利用された。市域には指定文化財が多く、常陸国分寺跡、常陸国分尼寺跡は国指定特別史跡。舟塚山古墳は国指定史跡。石岡の一里塚と府中愛宕山(あたごやま)古墳は県指定史跡。1980年に鹿の子(かのこ)遺跡から出土した漆(うるし)紙文書は県指定文化財。都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)や、農具万能(まんのう)の創案者鈴木万能の墓もある。高浜入八木(やぎ)干拓地は霞ヶ浦最初の干拓地。面積215.53平方キロメートル、人口7万3061(2020)。
[櫻井明俊]
『『図説石岡市史』(1961・石岡市)』
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