石狩町(読み)いしかりちよう

日本歴史地名大系 「石狩町」の解説

石狩町
いしかりちよう

明治四年(一八七一)九月一八日成立したほん町・弁天べんてん町・しん町・はま町・よこ町・なか町・船場ふなば町・親船おやふね(以上川西)若生わかおい町・八幡はちまん(以上川東)総称。石狩川河口を占め、北から西は日本海に臨む。公的な呼称として使われることは少なく、単に「石狩」と記されることが多かった。また「石狩邑」(「ケプロン報文」ワルフィールド報文など)と記されることもあった。石狩は近世にはイシカリ(石狩)場所・石狩元場所・石狩直領場所などとよばれ、石狩川鮭漁の本拠地であった。

石狩町
いしかりちよう

明治三五年(一九〇二)から同四〇年まで存続した町。明治三五年四月一日親船おやふね町・船場ふなば町・弁天べんてん町・よこ町・ほん町・なか町・しん町・はま町・若生わかおい町・八幡はちまん町および生振おやふる村が合併して発足、二級町村制を施行。旧町村名を継承する一一大字を編成。同三六年の戸数一千一五〇・人口六千二二一(「町村別戸口表」市立函館図書館蔵)。河口地区の一〇町は市街を形成し鮭漁業が主であったが、農業主体の大字生振村は水害の常襲地で、同三七年には畑冠水二二五〇ヘクタールの甚大な被害を受けた(石狩市年表)。石狩市街は、石狩石炭会社による築港計画の調査が同三九年から実施されて土地売買が活発化し、発展が期待された。

石狩町
いしかりちよう

明治四〇年(一九〇七)四月一日石狩町と花川はなかわ村が合併し一級町村制を施行して成立した町。一一大字に大字花畔村ばんなぐろむらと大字樽川村たるかわむらが加わり、平成八年(一九九六)まで存続した。石狩郡の西端に位置し、石狩川の河口に開けた町で「鮭のまち」として知られていた。当初は北海道庁札幌支庁の管轄であったが、大正一一年(一九二二)同庁石狩支庁の管轄となった。明治四二年の戸数一千五八七・人口八千二四五。開墾済耕地面積約五一〇六ヘクタール、農産物産額三七万八千円。漁業は鮭漁獲高一四万尾、総価格六万四千円であった。農業は相次ぐ洪水の大被害と町勢は不振を極めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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