石田城跡(読み)いしだじようあと

日本歴史地名大系 「石田城跡」の解説

石田城跡
いしだじようあと

[現在地名]寒川町石田東

寒川町の南部丘陵から北に延びた台地の先端にある。東に栴檀せんだん川、西に地蔵じぞう川が流れ、南は石田神社。小十九間おそくま城ともいう。北東雨滝あめたき城、北方正面の大井おおい(現大川町)北西乙井おとい(現長尾町)対峙。現在城跡には光明こうみよう寺が建ち、その北側に切通しを隔てて「城屋敷」とよばれる台地があり、二の郭と思われる。「翁嫗夜話」に「安富民部元綱居之。天正十一年夏五月、長宗我部元親攻而、抜之」とある。しかし「金心正義録」には享禄三年(一五三〇)安富又三郎が石田城を攻め、城将堀江宗遠は主君細川宗弘・同康弘を逃がし、身代りとなって討死したとみえるので、細川氏のあと、安富氏が入城したとも考えられる。


石田城跡
いしだじようあと

[現在地名]有家町石田

本城ほんじようの石垣・空堀を伴う平場などを遺構とする中世の城館跡。堂崎どうざき城ともよばれ、有馬氏の家臣が在城したと伝える。付近に残る古城こじよ丸尾まるお大屋敷おおやしき鍛冶屋敷かじやしきなどは関連の地名と考えられる。一五八四年(天正一二年)の日本年報(イエズス会日本年報)キリシタンが多く居住する有家から一レグワの地にドウザキDozaqui城があると報告されている。同年龍造寺隆信が戦死すると島原城主(島原純豊)は薩摩側に城を明渡すことにしたが、自らと部下の助命を条件とし、ドウザキ城の傍らに人質としてとどまっていたものの、一、二ヵ月後ひそかに肥前佐賀に逃げていったと伝える(一五八四年八月三一日「フロイス書簡」イエズス会日本年報、フロイス「日本史」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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