石畑村
いしばたむら
[現在地名]養老町石畑
柏尾村の東、養老山地勢至北谷の東麓に立地し、北西は清子村(勢至村)。明暦二年(一六五六)当村から石畑喜多新田村が分村したという(養老町史)。「新撰美濃志」によればもと椿井郷石幡村と称したと郡村記にみえるという。慶長郷帳にみえる石高村は当村に比定され、高五二二石。元和二年(一六一六)の村高領知改帳には石畠村とあり、徳永昌重(高須藩)領。
石畑村
いしばたけむら
[現在地名]豊郷町石畑
四十九院村の南にあり、西は中山道を挟んで安食南村。石畠とも記される。中山道愛知川宿(現愛知郡愛知川町)と高宮宿(現彦根市)の間の宿とよばれ、今も立場茶屋の名残をとどめ、一里塚の遺跡がある。現神崎郡五個荘町の弘誓寺蔵の「累代之記」によれば、開基の愚咄は文和三年(一三五四)「犬上郡安食庄石畠瓜生津」で没したという。
石畑村
いしはたむら
[現在地名]瑞穂町石畑・武蔵
殿ヶ谷村の北西にあり、北は入間郡高根村。集落の南部を南東―北西に青梅道(現青梅街道)が通り、これに並行して残堀川(蛇堀川)が南東流する。「いしばたけ」(風土記稿)・「いしはたけ」(内務省地理局編纂地名索引)ともいった。田園簿・寛文八年(一六六八)の検地帳(荒田家文書)では殿ヶ谷村と同様に村山村として高付されている。元禄郷帳では「村山石畑村」とみえ、高三九三石余。延享四年(一七四七)三卿の田安領となり、天保三年(一八三二)の領知替で幕府領に復した(「田安領知村高記」葛生家文書など)。文政一二年(一八二九)の拝島組合村高取調帳(増尾家文書)では高五七五石余。
石畑村
いしはたけむら
[現在地名]五所川原市一野坪
津軽平野北部、東は飯詰村、西は太刀打村、南は壱野坪村に接する。
貞享元年(一六八四)の郷村帳に寛文四年(一六六四)以後の新田として四五三・一石とある。同四年の検地帳は田方三四町一反七畝二六歩・畑方一町五反八畝一歩、田畑屋敷合せて三五町七反五畝二七歩、村高三一〇・三〇八石と記す。天和元年(一六八一)下の切遣から五所川原遣へ移された(五所川原町誌)。
石畑村
いしばたけむら
[現在地名]平賀町石畑
平川中流右岸の自然堤防上にあり、北は小杉村、南は大坊村、西は四ッ屋村、東は石郷村に接する。
貞享元年(一六八四)の郷村帳に新田として高五三二石とある。同四年の検地帳に村高一九・五八七石、うち田方一町三反四畝二八歩、一六・三一四石、畑方五反二畝九歩、三・二七三石とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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