石谷村(読み)いしだにむら

日本歴史地名大系 「石谷村」の解説

石谷村
いしだにむら

[現在地名]松元町石谷

福山ふくやま村の北東、石谷川上流域の標高一九〇メートル前後のシラス台地に立地する。

〔中世〕

伊集いじゆう土橋つちばし名内の石谷が開発され成立。地内に大窪おおくぼ穴湯前あなゆまえ源太迫げんたさこ馬渡まわたり門貫かどぬきなどの小地名があった。延応二年(一二四〇)八月二二日の比丘尼菩薩房・生阿弥陀仏連署田畠去状(比志島文書)に石谷阿闍梨房がみえる。比志島氏の祖栄尊の母菩薩房と叔母生阿弥陀仏が出挙物の代として満家みついえ西俣にしまた名のうち八世井浦田畠を、たけ(現郡山町)智賀尾ちかお六所権現(現智賀尾神社)の座主で紀姓伊集院氏一族と思われる石谷阿闍梨隆慶に去り渡している。弘長元年(一二六一)一〇月二八日、用丸もちまる名の字原田はらだ垣本かきもとの水田一町二反を紀姓伊集院氏の沙弥寂澄・清忠父子が石谷久徳(久得)に売却している(「沙弥寂澄田地売券案」山田文書)。石谷久徳も紀姓伊集院氏一族と思われ、伊集院石谷に居住し、この地を開発したものと考えられる。建治元年(一二七五)一〇月三日、石谷久徳の後継者と思われる仏教房が伊集院(島津)久親の娘初鶴御前に原田・垣本の水田一町二反を譲与している(「仏教房譲状案」同文書)。在来の領主が新来の島津氏に接近していった事例であろう。

伊集院久親は「蒙古襲来絵詞」に「いはや」四郎久親と記されるが、「いはや」は石谷で、久親はまず石谷に根拠を定め、のち伊集院全域に支配を拡大させていったと考えられる。初鶴御前は谷山たにやま(現鹿児島市)地頭の山田(島津)宗久(道慶)に嫁したので山田氏も石谷と関係をもつようになった。元亨四年(一三二四)道慶は伊集院三小山原内中原と「良金知行原」の境をめぐって石谷右衛門三郎法師道有を訴えている。「良金知行原」は道慶、中原は道祐が領知し、境は富松北中野猿走から向島むこうじま北上鼻崎とすることで和与している(同年一一月二九日「鎮西下知状」山田文書)。なお前掲の石谷久徳が開発した田地をその名にちなんで久徳名(久得名)と称したと考えられる。正中二年(一三二五)四月一九日、久得名内古江ふるえ園が道慶から嫡子諸三郎忠能に譲られている(「山田道慶譲状」同文書)。元徳元年(一三二九)大隅式部又三郎入道道覚が伊集院内の山田道慶知行の石谷のうち馬渡一町・世戸口せとぐち二反など一町四反と古江園・源太迫園を本銭返しの条件で質に取ったが、道慶が難色を示し訴訟となった。


石谷村
いしがいむら

[現在地名]岐阜市石谷

伊自良いじら川流域に位置し、西は村山むらやま村、北は彦坂ひこさか村。集落は伊自良川東の山麓谷間にある。中世には一帯石谷郷が成立していた。慶長九年(一六〇四)九月二三日「いしかい村」の野々村氏・大野氏らは、正木まさき村寺内につき奔走することを誓っている(「黒野村外三十二ヶ村連署書上」山田文書)。元和二年(一六一六)の村高領知改帳に石谷村とみえ、高八二八石余で奥平忠隆(加納藩)領。慶長郷帳に「とい塚村」とあるのは誤記か。加納藩の家中知行渡方帳(森文書)によれば家臣二〇名の給地。正保郷帳では幕府領で、田七四六石余・畑七七石余・紙木高七斗余・山年貢四石。


石谷村
いしだにむら

[現在地名]永源寺町石谷

一式いつしき村の西にあり、北西は瓜生津うりゆうづ(現八日市市)。南を蛇砂へびすな川が西へ流れ、その南に布引ぬのびき山丘陵が横たわる。寛永石高帳に村名がみえ、高五四八石余、彦根藩領。元禄八年大洞弁天寄進帳では人数二五二(男一一五・女一一九、寺社方男女各九)。明治八年(一八七五)地租改正の進行過程で一式と瓜生津・土器どき(現八日市市)三ヵ村との合併を願出たが、同一〇年取消している。


石谷村
いしたにむら

[現在地名]朝日町石谷

ささ川上流左岸にあり、北は篠川ささがわ村、北から西は南保なんぼ村。南保村から分れたと伝える(下新川郡史稿)。承応二年(一六五三)の出来村という(出来新村・退転村記申帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二五石、明暦三年(一六五七)から万治二年(一六五九)の新田高一三石、免四ツ三歩(三箇国高物成帳)。享保八年(一七二三)から三度の増高により、天保一一年(一八四〇)の草高四五石(「高免帳」杉木家文書)


石谷村
いしたにむら

[現在地名]大野市石谷

高尾たかお岳の南東裾、唐谷からたに川の左岸にあり、東は大月おおつき村、北西は不動堂ふどんど村。村名は正保郷帳にみえ、田方一三五石余・畠方一一石余。初め福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府領、元禄五年(一六九二)以降美濃国郡上藩領。


石谷村
いしだにむら

[現在地名]吉川町石谷

北東を川谷かわだに村に接する尾神おかみ岳南麓の山村で、吉川の最上流部で、丸木打渡橋が架かる。南西は名木山なぎやま村。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「柿崎分石谷村 下」とみえ、本納七石三斗一升五合・縄高一八石五斗二升九合、家二軒・六人とある。正保国絵図に村名が記され、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高二一石九斗四升。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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