日本大百科全書(ニッポニカ) 「社会ファシズム論」の意味・わかりやすい解説
社会ファシズム論
しゃかいふぁしずむろん
1923年から35年までの間、コミンテルンは社会民主主義を社会ファシズムと規定し、批判し続けた。ドイツ社会民主党は1918年末から翌年初めにかけて勃発(ぼっぱつ)したドイツ革命を党の究極の目的である社会主義革命に転化する方向に指導せず、むしろ軍部、保守勢力と同盟を結んで、社会主義革命への転化を要求して同党から分裂した共産党を弾圧し、ワイマール共和国を創立した。こうした背景のなかで、ヨーロッパ各国の主要な社会民主党や社会党から分裂した共産党の国際組織たるコミンテルンが1919年ロシアのボリシェビキの指導下に創立され、それは23年までイタリアやドイツにおける革命情勢を利用して社会主義革命の実現を図ったが失敗した。その理由は、革命の客観的条件が存在するにもかかわらず、社会民主主義がマルクス主義的社会主義の仮面をつけて労働者階級を惑わし革命を裏切っている点にあると分析して、社会民主主義は危機にある資本主義体制の最後の支柱であるという認識を深めつつあった。そしてそれは、1922年イタリアでファシズムが成立し、翌年一時ドイツでも社会民主党の支持を得た軍部独裁が樹立されるや、社会民主主義を社会ファシズムと規定するようになった。この社会ファシズム論は24年のコミンテルン第5回大会で初めて登場したが、28年第6回大会では、社会民主主義こそ主要な敵であると規定するほどこの社会ファシズム論は有害な方向に展開されていった。というのは、それはまさにナチスを阻止するために社会民主主義勢力を含めての全民主勢力の結集が必要なときに、社会民主主義を主要な敵と宣言して、民主勢力の分裂を深め、ナチスの勝利を間接的に助ける一因となったからである。
この社会ファシズム論は1935年のコミンテルン第7回大会で反ファシズム統一戦線という観点から批判され、克服された。
[安 世舟]