一般的には、暴力革命とプロレタリア独裁を否認し、議会制民主主義の方法によって社会主義を実現しようとする思想と運動の総称である。しかし、その世界観的基礎としてマルクス主義を認める広義のものから、それを否認し理想主義的ヒューマニズムを掲げる狭義のもの、すなわち民主社会主義まで多種多様な形態があり、一義的に定義することは困難である。このことばの多義的である理由は、それが歴史的にそれと対立する思想と運動との緊張関係のなかでその意味内容を形成してきたからである。したがって、社会民主主義の意味内容とその多種多様な形態を明らかにするには、その成立・展開・分裂・終焉(しゅうえん)の過程を歴史的に追っていくことが最適である。
[安 世舟]
19世紀中葉、フランスでは資本主義の進展とともに没落を余儀なくされた都市手工業者や新しく台頭しつつあった工業労働者からなる勤労者大衆は、制限選挙制によって政治参加の道が閉ざされていたが、ついに1848年立ち上がって普通選挙権を要求し、政治的民主主義の徹底化によって彼らが被っている社会問題の解決を図ろうとした。この勤労者大衆の民主主義の要求は従来の「教養と財産をもつ市民」の自由の実現のみを目的とする自由主義的民主主義と区別する意味で社会民主主義と称された。このように社会民主主義という用語は1848年のフランスの二月革命において誕生したが、その後、資本主義の進展がみられた各国では人民の実質的多数者となりつつあった勤労者大衆の民主主義運動、すなわち社会主義労働運動の別称として用いられるようになった。
[安 世舟]
社会民主主義が社会主義労働運動と同義に用いられるようになったのは1860年代のドイツにおいてであった。1863年ラッサールによって最初の労働者政党たる「全ドイツ労働者協会」が創立された。それはまず普通選挙権を獲得し、その後国家から資金援助を得て労働者階級の生産協同組合をつくることによって社会主義の実現を図ることを目的とした。それを象徴したのが同協会誌の『社会民主主義者』という名称であった。このラッサール派に対抗して、1869年、マルクス、エンゲルスの影響下にあった人々によって「社会民主労働者党」が創立された。同党もその党名が示すように、社会民主主義を目ざす点でラッサール派と変わらなかった。両派は1875年合同し、ドイツ社会主義労働者党と称した。1890年、同党は12年間のビスマルクの「社会主義者鎮圧法」下の厳しい弾圧をくぐり抜けて合法化され、党名を「ドイツ社会民主党」と改称した。そして翌年マルクス主義的社会主義を盛り込んだ「エルフルト綱領」を採択した。その2年前の1889年、社会主義労働運動の国際組織たる第二インターナショナルが創立されていたが、同インターの指導権を掌握していたのも同党であった。したがってドイツ社会民主党は名実ともに当時世界におけるマルクス主義的社会主義運動の指導政党であった。同党が奉じていたマルクス主義はカウツキーによって受容された客観主義的経済決定論であり、その政治行動の準則は労働者階級に社会主義到来の必然性を宣伝し、彼らを組織し、既存体制を強めるものと思われるいっさいの行動を差し控えること、すなわち国家拒否主義を貫くことであった。しかし合法活動が議会活動に限定されていたので、党の主力はいやおうなしに選挙活動と議会活動に傾注され、その結果、議会選挙ごとに議席を倍増させ、ついに1912年の選挙では議会第一党へと躍進を遂げることに成功した。イギリスのような議会制民主主義が確立されていたならば、当然同党は政権参加を迫られ、国家拒否主義を続けるか、あるいは放棄するかの選択を迫られたであろうが、外見的立憲主義のドイツでは同党には政権参加の道は閉ざされたままであったので、議会制民主主義の確立されていない国における社会民主主義の限界が明らかにされた。それとともに社会民主主義の岐路がやってきた。ところで、第一次世界大戦までのドイツ社会民主党の理論と実践がマルクス主義的社会主義の模範とされていたので、当時、社会民主主義はマルクス主義的社会主義と同義に解されるようになっていた。
[安 世舟]
本来マルクス主義もその革命戦略において社会民主主義とオーバーラップする側面をもっていた。それによると、資本主義の発展とともに全人口が二大階級へと分極化し、多数者たる労働者階級が国家権力を獲得し、それを通じて一握りの資本家階級が所有する生産手段を全人民の所有に変えることによって社会主義が達成される。もし人民が国家権力を獲得する手段として議会主義が確立されている国では、社会主義は当然議会主義によって実現される可能性があるので、労働者階級の社会主義革命運動は議会主義活動に尽きることになろう。したがって、こうした国ではマルクス主義は実質的に社会民主主義として現れてくるのは当然であったといえよう。実際、1890年代まで政治的民主主義に対する制度信仰が強く、半立憲主義体制のドイツでもドイツ社会民主党の例にみられるように、マルクス主義は社会民主主義として現れ、かつそうあろうとする努力が払われてきた。しかし世紀の変わり目を境に独占資本主義の成立とともに、イギリス、ドイツなどの先進資本主義諸国では、外に向かっては帝国主義が、内に向かっては労働者大衆の要求にこたえて普通選挙制度や社会政策が採用されて、労働者は何も失うものをもたぬプロレタリアートの存在から、守るべき「祖国をもつ市民」へと変容しつつあった。それとともに社会民主主義とマルクス主義とを同一視する考え方に疑問を提起するものがイギリスやロシアから現れた。
イギリスでは議会政治によって漸進的に社会改革を積み重ねることで社会主義を実現しようとするフェビアン協会が1884年創立され、その掲げる理念は1906年創立されたイギリス労働党の基本綱領となった。それは社会民主主義を目標に掲げている点ではマルクス主義と共通する側面を有するが、その世界観的基礎として理想主義的ヒューマニズムを掲げ、既存の国家を前提として民主主義の原理の社会的・経済的領域への拡大を主張し、したがって史的唯物論や階級国家論、階級闘争説を否認した。これは第二次世界大戦後、「民主社会主義」として定式化された狭義の社会民主主義の原型である。1896年からドイツ社会民主党内に、このフェビアニズムとカントの理想主義哲学の影響を受けたベルンシュタインは、マルクス主義の原理そのものを否認し、労働組合と協同組合を主体とする社会改良活動と、議会と地方自治体における政治的民主主義の徹底化によって社会主義を実現することができるという「修正主義」を主張し、国家拒否主義を固執する「正統派」マルクス主義的党指導部に政策転換を迫った。他方、1902年以降、ロシア社会民主労働党の多数派すなわちボリシェビキの指導者レーニンは、専制主義的ロシアでは国家権力の合法的な獲得の道は閉ざされているので、職業革命家からなる労働者階級の前衛政党による暴力革命を含めてのあらゆる方法を用いて既存の国家権力を打破し、プロレタリア独裁を樹立して初めて社会主義は実現の緒につくことができるのであり、暴力革命とプロレタリア独裁を認めるものこそ真のマルクス主義者であると主張し、正統派マルクス主義と修正主義と自己の主張とを区別して共産主義とよんだ。
第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)とともに、マルクス主義的社会主義としての社会民主主義は、右からの修正主義、左からの共産主義の挟撃を受けて分裂し、第二インターナショナルは崩壊した。1917年末ロシア革命成功後、共産主義が社会主義労働運動において威信を高め、ドイツ、フランス、イタリアなどでは共産主義者が社会民主党から脱党し、それぞれ共産党を創立し、これらの諸党は1919年ボリシェビキの指導下に国際共産主義組織を創立した。こうして国際的にも社会主義労働運動は共産主義と広義の社会民主主義の両陣営に分裂した。正統派マルクス主義はロシア革命を経験したのち、暴力革命とプロレタリア独裁を否認し、議会制民主主義による社会主義の実現を主張し、革命の方法の点で修正主義とフェビアニズムに接近していったが、その世界観的基礎としてはマルクス主義を固執したために、社会民主主義のなかには、正統派マルクス主義を名のるオーストリア社会民主党やドイツ社会民主党左派から、修正主義ないしは改良主義、フェビアニズムまでの多種多様な形態がみられるようになった。
[安 世舟]
第二次世界大戦後、ファシズムとスターリン主義を経験し、両者を同種とみる全体主義論が西欧の社会民主主義者の間に受容され、冷戦の激化とともに共産主義に対してますます民主主義が強調されるようになった。その結果、「社会主義は民主主義によってのみ実現され、そして民主主義も社会主義によってのみ達成される」とする民主社会主義がイギリス労働党とドイツ社会民主党によって唱道された。そして1951年両党が中心となって開催された社会主義インターナショナル第1回大会で民主社会主義は同インターの綱領として採択された。それは徹底した反共産主義の立場から、マルクス主義と絶縁を宣言したばかりでなく、国有化政策を後退させるなど、所有の社会主義のかわりに、機能の社会主義、たとえば旧西ドイツの共同決定法による労働者の経営参加などを主張した。イギリスや北欧・中欧では社会民主主義政党が政権を担当し、民主社会主義の実験に着手したが、最近、それを可能にした高度経済成長も行き詰まり、それに陰りがみえ始めている。この民主社会主義は広義の社会民主主義と区別して「社会自由主義」と称する人もいる。他方、共産主義の側でもスターリン主義批判(1956)以後、旧ソ連・東欧の現存した社会主義のマイナス面が知れわたるにつれて、ボリシェビキの国際共産主義運動における一枚岩的支配体制も揺らぎ始めた。その結果、西欧先進諸国の共産党はボリシェビキ型社会主義が唯一の正しいモデルであるという従来の考えを捨て、各国にはそれぞれの事情に応じた多元的で多様な社会主義への道がありうると主張して、暴力革命とプロレタリア独裁を否認し、議会制民主主義による社会主義の実現を主張した。こうした動きはソ連型共産主義と区別して「ユーロコミュニズム」と称されている。これはその理論と実践からみて広義の社会民主主義の範疇(はんちゅう)に入るものと考えられる。
日本では、冷戦末期まで社会党が第一次世界大戦までのドイツ社会民主党型の広義の社会民主主義を、民社党は民主社会主義をそれぞれ標榜(ひょうぼう)していた。共産党はユーロコミュニズムを志向しているようにみえた。
[安 世舟]
冷戦後、ソ連および東欧の現存する社会主義体制が消滅し、それと前後して「経済と情報のグローバリゼーション」の波が世界をおおい始めるとともに、一国資本主義体制の下で自由民主主義体制を基礎にして社会福祉体制の構築を目ざしてきた西欧や北欧の社会民主主義は、その存立基盤が掘り崩されるようになった。というのは、理念の実現形態としての社会福祉体制の確立や、社会民主主義と対抗したソ連型共産主義の消滅とともに、それが本来有していたユートピアを希求する社会改革エネルギーの枯渇がみられるようになったからである。
さらに新自由主義の台頭とともに、西欧や北欧の社会民主主義政権は、社会民主党が加わった連立政権を含めてそれまで築いてきた福祉の維持と財政危機を両立させる難問に直面して苦悩しつつある。この問題の解決に当たりイギリス労働党は、「ニュー・レイバー」と称して新自由主義と妥協する形態で解決しようとする「第三の道」を模索するが、支持層の離反を招く結果に終わっている。
日本でも冷戦後に民社党は消滅し、広義の社会民主主義を標榜してきた社会党も1996年(平成8)に二つに割れた。その大部分は民主党に合流し、残された小部分も広義の社会民主主義を捨てて、名称を社民党に改称した。従って、社会民主主義を主張する政党は小党の社民党のみとなり、社会民主主義は実質的に崩壊したも同然となった。
こうして社会民主主義は、新しい時代の挑戦を受けて根本的な刷新が求められている。グローバル化時代におけるその存続には、理念の再構築と、理念実現の展望有無の検証、実現主体・運動形態・達成方法の再構築が迫られており、それらに成功するかどうかにその未来がかかっている。
[安 世舟]
『F・メーリング著、足利末男他訳『ドイツ社会民主主義史』上下(1968、1969・ミネルヴァ書房)』▽『安世舟著『ドイツ社会民主党史序説』(1973・御茶の水書房)』▽『G・リヒトハイム著、庄司興吉訳『社会主義小史』(1979・みすず書房)』
社会民主主義は,通例非マルクス=レーニン主義的な社会主義の意味で用いられることが多いが,その積極的意味づけは必ずしも明確でない。その理由としては,社会民主主義という言葉が現実政治においてきわめて党派性の濃い概念として用いられてきたこと,またこの言葉の意味が歴史上幾度かの変遷を経てきていることが挙げられよう。
一般に19世紀中ごろまで,民主主義と社会主義とは密接な関係にあった。西欧市民革命における急進派のイデオロギーであった民主主義は,その後初期社会主義者によって継承されたからである。こうした背景の下に,社会民主主義という言葉を組織名称として用いた最初の例は,1848年フランスの二月革命後にルドリュ・ロランを支持したグループであったといわれる。その後,ラサールによって創設された全ドイツ労働者協会は1865年に《社会-民主主義者》という名の機関誌を創刊している。この名称は1848年の伝統を継受すると同時に,政治的民主主義ばかりでなく社会問題をも重視するという彼らの立場を表すものであった。同様にドイツにおけるマルクス派の組織は最初社会民主労働者党と名のり,ラサール派との合同を経て1890年にはドイツ社会民主党と改名するに至っている。1889年に結成された第二インターナショナル(インターナショナル)に加盟した各国の組織の多くも社会民主主義の名称を採用していた。それゆえ,これ以降第1次大戦に至るまで社会民主主義は,第二インターの指導原理であるマルクス主義の運動の意味で用いられていたのであり,それはロシア社会民主労働者党に属していたレーニンにとっても同様であった。
大戦勃発に際してのドイツ社会民主党による戦時予算案賛成投票,同党の分裂,ロシア革命とドイツ共産党の成立という一連の事態は,社会民主主義という言葉に決定的な変化を及ぼすこととなった。これ以降,社会民主主義はマルクス=レーニン主義(共産主義)と対立する社会主義運動の潮流を意味するものとなり,しかも共産主義者によって蔑称の意味で用いられたからである。社会民主主義の理論としてしばしばベルンシュタインやフェビアン主義,さらにカウツキーやヒルファディングの思想が引合いに出されるが,社会民主主義はあくまでもマルクス=レーニン主義以外の潮流の総称として用いられたのであって,何らかの統一的思想体系があったわけではない。しかし,一般に社会民主主義者と呼ばれた人たちは労働組合や議会主義をとおしての資本主義内部における改革や社会主義への平和的移行を重視し,非合法的活動を抑圧する傾向にあった。そのため,共産主義者は大戦中およびそれ以後,彼らの態度を改良主義あるいは日和見主義として非難したのである。
第1次大戦中に事実上崩壊した第二インターのうち非マルクス=レーニン主義的な潮流に属する政党は,1923年に社会主義労働者インターを結成し,さらに第2次大戦後は国際社会主義者会議(COMISCO(コミスコ))を経て51年に社会主義インターナショナルを創設した。第2次大戦後の社会民主主義の新たな特徴は,かつての非共産主義的立場という消極的なものとは異なって,みずからの理論に〈民主社会主義〉という積極的意義づけを与えようとしたことにある。民主社会主義はマルクス主義との決別を宣言し,さらに共産主義との相違についても,以前のように単なる手段だけでなく,社会主義の目標においてもソ連型とは異なる構想を打ち出している。現代の西欧社会民主主義には社会主義を既存の福祉国家の発展に還元してしまう傾向もみられるが,近年では共産主義側におけるユーロコミュニズム,社会民主主義側におけるフランス社会党の〈自主管理社会主義〉の提唱など,従来の対立の枠を超えた新たな社会主義像構築の試みが,なされつつある。
日本で社会民主主義という言葉を組織名称として最初に用いたのは,1901年に結成したが解散させられた社会民主党である。その後,第1次大戦後の西欧社会主義運動の分裂を反映して,日本においても社会民主主義は共産主義以外の社会主義的潮流に対する蔑称として用いられるようになった。革新勢力における正統マルクス主義の伝統が強く,西欧とは異なって社会主義政党が与党になる機会のほとんどなかった日本では,社会民主主義は共産党以外の革新運動にとってさえマイナス・シンボルとして機能する傾向が強い。他方,民主社会主義という言葉は,日本ではもっぱら民社党がみずからの立場を指すために用いることが多い。
執筆者:亀嶋 庸一
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(山口二郎 北海道大学教授 / 2007年)
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19世紀末のヨーロッパ諸国では,一般にマルクス主義にもとづく社会主義が社会民主主義と呼ばれた。ロシア革命後,共産党となったボリシェヴィキは,議会を通じて社会変革をめざす運動を否定的に社会民主主義と呼び,この用語法が一般化した。ソ連崩壊後は,それが逆に肯定的な意味で用いられるようになっている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…そして既存の党機構を分裂させて,中央集権的な強固な組織を有する共産党を各国に結成しようとした。〈社会民主主義〉は,共産党員にとっては悪罵(あくば)の言葉となり,社会主義勢力は共産党と社会党に分裂した。 ドイツでは,社会民主党はワイマール共和国を支える主柱となったが,共産党は社会民主党を社会ファシストとして攻撃し,プロイセン議会ではナチ党とともに社会民主党政権にたいして不信任投票を投じたこともあった。…
…そしてこの変化に対応して,以後民主主義という言葉は,中産階級に対する,より下層の職人や労働者の戦闘性のシンボルとなっていった。この変化は,早くも1830年代末に,イギリス労働者の最初の自己解放運動であるチャーチスト運動の中に民主主義を名のる団体が現れたこと,二月革命の最中にフランスで,より人民的な民主主義という意味で〈社会民主主義〉という言葉が用いられはじめたこと,同じ1848年のドイツ革命でも各地に民主主義を称する団体が生まれたことなどの中に現れている。マルクスが《共産党宣言》(1848)の中で,〈労働者革命の第一歩は民主主義を戦いとることである〉と述べたのもその一つであった。…
※「社会民主主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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