神内村(読み)こうないむら

日本歴史地名大系 「神内村」の解説

神内村
こうないむら

[現在地名]高槻市神内一―二丁目・神内・梶原かじはら三―四丁目・六丁目・上牧かんまき山手やまて町・北駅前きたえきまえ町・南駅前みなみえきまえ町〉・淀の原よどのはら町・東上牧ひがしかんまき一丁目

安満あま山の東方の支陵、神内山の東麓に位置する。南西から南、南東にかけて上牧村に接し、中央をほぼ南北に西国街道が通る。上牧村の当村に近接する辺りにあった神奈備かんなび神社を歌枕の神奈備森かんなびのもりの地にあたるとする説があり、当地の地名はその転訛とされる(大阪府全志)。また、和銅四年(七一一)制定の「都亭駅」中の大原おおはら(「続日本紀」同年正月二日条)も、当地もしくは梶原かじわら村との間に比定する説が有力である。「古今集」に収める源実の歌の詞書に「山さきより神なびのもりまでをくりに人々まかりて、かへりがてにしてわかれおしみけるによめる」とあり、また「新勅撰集」藤原長家の歌の詞書に「宇治関白有馬の湯見にまかりける道にて、秋の暮を惜しむ歌よみ侍りけるに」とあって神なびの杜の景況を詠みこんでおり、なお駅所としてのなにがしかの痕跡を残していたものと思われる。


神内村
こうのうちむら

[現在地名]紀宝町神内

井田いだ村の西、神内川の上流山間部の小盆地に集落が点在する。中世四箇しか庄の内と考えられる。慶長六年(一六〇一)検地帳(徳川林政史蔵)に「神内村」と記される。新宮領で成川組に属する。宝永二年(一七〇五)新田畑御改帳(徳川林政史蔵)には、屋敷も含め六町七反余が記されている。近世初期の家数五五(「新宮藩御勘定方旧記」和歌山県史近世史料編)、後期は八五(紀州新宮領分見聞記)安永(一七七二―八一)の頃新宮城主水野氏によってオムラノ堤を築き溜池を作り、三キロの用水路により、字上野うえのに一〇余町歩の新田が開発された。


神内村
じんないむら

[現在地名]河辺町神内

大張野おおばりの村の南、岩見いわみ川の支流神内川の河谷にあり、羽州街道に面する。上流の奥出おくだし村・福田ふくだ村は支郷。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には甚内村八四石であったが、天和四年(一六八四)には「神内奥田子村」は三一五石一斗五升八合に急増(「御黒印高帳河辺郡村々」河辺町郷土誌)、うち一八六石余が新田高となっている。享保一四年(一七二九)「神内奥出村」は四六六石に増え、新田高も二九一石になっている(「河辺郡御黒印高帳」河辺町郷土誌)灌漑は「秋田風土記」に「田水沢川」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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