梶原村
かじわらむら
[現在地名]高槻市梶原一―六丁目・梶原中村町・萩之庄一―五丁目・五領町・上牧山手町・上牧北駅前町・野田東二丁目・前島一丁目・井尻一―二丁目・上牧町五丁目・道鵜町一―五丁目
上牧村の西にあり、安満山の南麓、檜尾川の左岸東方に位置する。淀川沿いに枝郷道斎がある。南東端は淀川に接し、中央をほぼ東西に西国街道が通る。条里制の遺称とされる小字に五ノ坪・六ノ坪・十八・十九・西十九がある。奈良時代には山陽道(のちの西国街道)沿いに梶原寺があり、芥川廃寺、太田廃寺(現茨木市)とともに律令制下三島の氏族たちの仏教受容の中心地であった。中世から近世初期には「かじおり」といった。京都相国寺瑞渓周鳳の「温泉行記」宝徳四年(一四五二)四月の記事に「経広瀬、神内、
折、阿摩、芥河」とある。「大阪府全志」は往古唐船が淀川を山崎(現三島郡島本町)まで入津した時、当地で大風にあい難破し、帆を失い、梶を折ったとする説話を紹介している。
梶原村
かじわらむら
[現在地名]名和町加茂
門前村の南東、名和川の中流に位置する。拝領高二五六石余、本免五ツ二歩。給人所付帳によると山池の池田氏の給地。竹運上銀二四匁が課せられていた(藩史)。宝永七年(一七一〇)の汗入郡郷庄人家等改(名和町誌)によれば家数二六、男八六・女九〇、牛一〇・馬三。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二九四石余、竈数四六。安永八年(一七七九)宗旨庄屋であった真島藤蔵は、八橋郡や汗入郡の大庄屋などとともに多額の御普請御用銀を藩に献上し賞されている。享和三年(一八〇三)松平肥後守の廻米船が岡村(現中山町)の浦で難破したときも、宗旨庄屋を勤めていた真島文右衛門などが尽力し、褒美が与えられた。
梶原村
かじわらむら
[現在地名]社町梶原
加古川の支流千鳥川の北岸に位置し、対岸は家原村。慶長国絵図に「かち原村」とみえる。正保郷帳では梶原村と記され、赤穂藩領、田方二三三石余・畠方二一石余。以後の領主の変遷は田中村と同じ。天保郷帳では高二五七石余、ほかに当村と北村・中村・窪田村・木梨村・下三草村・上三草村・牧野村、北野村・新町村・多井田村・穂積村(現滝野町)の計一二ヵ村の立会新田九七石余がみえる。
梶原村
かじわらむら
[現在地名]鎌倉市梶原・梶原一―五丁目
鎌倉から仮粧坂を経て藤沢方面に向かう道路に沿った谷間の村で、北は寺分村、東は扇ヶ谷村、南は常盤村・笛田村、西は宮前村(現藤沢市)に接する。
「和名抄」にみえる鎌倉郡梶原郷の遺称地で、大庭氏一族の梶原景時らを出した梶原氏の名字の地にあたり、梶原氏や景時に関する伝説も伝わっている。鎌倉権五郎景政を祀る鎮守の御霊神社はもとより、現在の深沢小学校の裏手には景時の墓といわれる五輪塔のあるやぐらがある。またその東方、仮粧坂へ至る途中には、御堂屋敷という南向きの小さな谷があり、この付近には「まんどころ」の小地名も残る。
梶原村
かじわらむら
[現在地名]市島町梶原
北端を竹田川の支流鴨庄川が流れ、西は竹田川を隔てて勅使村。慶長六年(一六〇一)より幕末まで旗本川勝一族の間で伝領された(「寛政重修諸家譜」など)。正保郷帳に村名がみえ田高二六五石余・畠高二一石、芝山・林あり、日損少しあり。「丹波志」では家数一一〇、天保郷帳では高三九一石余。用水は溜池と竹田川に掛かる下井根・上井根井堰より得る(吉見村誌)。
梶原村
かじわらむら
[現在地名]豊岡市梶原
火撫村の南東、円山川の東岸に位置し、支流六方川が流れる。江戸時代の領主の変遷は立野村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高二五六石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙でも同高。天明八年(一七八八)の巡見帳(岩本家文書)では高二五七石余、山役等米三石八斗余・桑役銀三七七匁余、家数二二・人数一三〇、鎮守は八幡大菩薩(現八幡神社)。曹洞宗洞松寺があったが、明治三一年(一八九八)廃寺。
梶原村
かじわらむら
[現在地名]唐津市鏡
鏡村に南接する鏡山南西山麓の村。山麓一帯には多くの古墳が存在した形跡がみられ、玉葛窟古墳・樋の口古墳は原形をとどめている。玉葛窟古墳には「源氏物語」になぞらえて玉葛が隠れ住んだとの伝説がある。
正保絵図に村名が記され、文化年中記録に畝数二九町七段五畝一八歩とある。
「太宰管内志」は「肥前風土記」に記す篠原について「さて此篠原の事は〔師ノ考〕に鏡村の西に梶原又原など云処あり、此にあたるべしと云はれたるはさもあるべし。
梶原村
かじはらむら
[現在地名]作東町梶原
小野村の北東、粟井川の源流域に立地する。正保郷帳に村名がみえ、田一二五石・畑三三石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高五六石余・開高一九石余、村位は中。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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