福増村(読み)ふくますむら

日本歴史地名大系 「福増村」の解説

福増村
ふくますむら

[現在地名]松任市福増町

宮永みやなが村の東に位置し、中村なかむら用水の分流ひがし川と支流柳橋やなぎばし川が流れる。中世は福益村(福益庄)として推移し、現金沢市福増町付近も含んだとみられる。嘉暦三年(一三二八)三月一〇日、藤原光国白山本宮に福益村の田地二町六段を寄進したことについて、永享二年(一四三〇)六月一一日には光国の子孫とみられる菖蒲丸代承善が上分のみを寄進して下地は菖蒲丸方に永代預りとする旨を確認している(「藤原光国田地寄進状案」白山比神社文書)

福増村
ふくますむら

[現在地名]市原市福増

有木ありき村の東に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に福増村とみえ、高二八九石。寛永三年(一六二六)五月の知行宛行状では福増村二八九石余が旗本永井領。正保国絵図では福井村として高二二三石余、元禄郷帳でも福井村で、高二八九石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数四六で、旗本永井領。幕末まで同氏領。天保郷帳では福増村の注記に古くは福升村とあるので、福井とするのは誤記であろう。明和四年(一七六七)百姓惣代二名が人馬役の不公平、地主と小作人の間の役負担をめぐって領主に訴えて、ほぼ要求が認められているが、当時百姓は四一名、捉飼場で鷹匠廻村の際は人馬役を勤め、長柄山ながらやま(現長柄町)などへの助郷を負担していたという。

福増村
ふくますむら

[現在地名]浜松市三和町さんわちよう

渡瀬わたせ村の東に位置し、南は小松方こまつがた村。松平忠頼領郷村帳では高四二石余、田二町七反余・畑二町四反余。慶長一五年(一六一〇)の水野重仲知行割帳には「ふくます村」とみえる。領主の変遷西にし村と同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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