福生村(読み)ふつさむら

日本歴史地名大系 「福生村」の解説

福生村
ふつさむら

[現在地名]福生市福生・本町ほんちよう東町ひがしちよう志茂しも牛浜うしはま福生二宮ふつさにのみや北田園きたでんえん加美平かみだいら武蔵野台むさしのだい

現市域の北部を占める。古多摩川により形成された五―六段の河岸段丘上に立地し、拝島はいじま(第二段丘)に小集落が二つほど点在、おもな集落はそれより下位の段丘に営まれた。大小いくつかの湧水がみられる。南は五日市街道を境に熊川くまがわ村、北は川崎かわさき(現羽村市)である。

〔中世〕

小川系図(塩田家蔵)宗末の項に「多(摩)郡福生村 寛治九・八・(旬日カ)」、同じく平山季重の項に「保元三・福生村賜御下文」、季重の子俊重に「文治三年九月十三日 平山福生両村謀得迄」などと記される。宗末の記述は、寛治年号が同八年(一〇九四)一二月の改元であることも含めて詳細は不明である。季重は保元の乱の際に源義朝に従っているので、保元三年(一一五八)乱の恩賞として義朝から福生村を与えられたと考えられる。俊重の「謀得迄」の記述は「譲得訖」の誤記とすれば、文治三年(一一八七)九月一三日に平山ひらやま・福生両村が季重から俊重へ継承されたということであろう。駿河伊達系図(福生市史)塚目家政の項に「住武蔵国フツサ」という注記がある。平山氏が和田義盛の乱に連座したためか、地頭職を失ったと思われる建保元年(一二一三)頃から承久の乱直後の間、家政は当地に住していたと推定され、併せて当地が一時期伊達氏の所領であったと考えられている(同書)

文明一四年(一四八二)四月の阿豆佐味あずさみ神社棟札銘(福生町誌)に「大工多摩郡福生村住人孫五郎定仗」とある。永禄四年(一五六一)と推定される酉三月六日の北条氏照奉行人連署制札、同じく酉六月五日の北条氏照制札(ともに石川家文書)は「福生郷」における軍勢甲乙人の濫妨狼藉を禁じたもので、このとき勝沼かつぬま(現青梅市)居城とする三田氏と滝山たきやま(現八王子市)を居城とする北条氏照の境目にあたる当地周辺で軍事的緊張が高まったと想定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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