日本大百科全書(ニッポニカ) 「福田勝治」の意味・わかりやすい解説
福田勝治
ふくだかつじ
(1899―1991)
写真家。静物、女性、風景などを主題とした、耽美的な作風を展開した。山口県佐波郡三田尻中之関村(現防府(ほうふ)市)生まれ。中学を中退後、1920年(大正9)に上京、高千穂製作所に入社。水銀体温計の製造に携わるかたわら、同僚から入手したベスト・ポケット・コダックカメラ(1912年に売り出され、写真の大衆化に貢献したことで名高いロールフィルム装填式の簡易カメラ)で写真撮影を始める。
23年関東大震災を機に同製作所を退社、大阪へ転居し、淵上白陽(ふちかみはくよう)の主宰する写真雑誌『白陽』の編集助手を務める。25年第1回日本写真美術展に出品、イルフォード・ダイヤモンド賞受賞。28(昭和3)~29年堺で営業写真館を経営。30~31年広告会社青雲社で広告写真を手がける。32年に広島で営業写真館に勤務した後、翌年ふたたび上京。36年『アサヒカメラ』誌で半年間にわたり「カメラ診断、人物写真の分析」を連載し、女優の原節子、入江たか子らをモデルに作例写真を撮影。クローズ・アップを多用した、明るく洗練された作風が人気を呼び、翌37年同連載をまとめた写真集『女の写し方』を刊行し、ベストセラーとなる。38年アメリカ帰りのダンサー、テイコ・イトウを撮った作品で初個展(松屋銀座、東京)開催。第二次世界大戦直前から戦中にかけての時期には、農村生活に取材した『出発』(1940)、『牛飼ふ小学校』(1941)、『神宮外苑』(1942)などの写真集を出版。44年に大政翼賛会の委嘱で朝鮮半島各地を撮影。
戦後まもなく女性写真や静物写真の撮影を再開し、光の演出に巧みで大らかなエロティシズムにあふれた独自の美学を追求。『裸婦五態』(1946)、『花と裸婦と』(1947)をはじめ多数の写真集を出版し、ジャーナリズムから脚光を浴びる。55年(昭和30)キヤノン・コンテストで推選を受け、イタリアを撮影旅行。55年日本写真協会年度賞、86年日本写真協会功労賞を受賞した。
[大日方欣一]
『『現像の実際』(1937・朝日新聞社)』▽『『女の写し方』(1937・アルス)』▽『『春の写真術』『作画の実際・私の写真術』(ともに1938・アルス)』▽『『静物写真の作り方』(1939・アルス)』▽『『出発』(1940・光画社)』▽『『銀座』『牛飼ふ小学校』(以上1941・玄光社)』▽『『神宮外苑』(1942・日本写真工芸社)』▽『『裸婦五態』(1946・イブニングスター社)』▽『『花と裸婦と』(1947・イブニングスター社)』▽『『写真芸術』(1949・光画社)』▽『『天然色作品集・色と光の芸術』(1951・雄鶏社)』▽『『京都』(1958・岩崎書店)』▽『『頌歌』(1979・朝日ソノラマ)』▽『亀井武編『日本写真史への証言』上(1997・淡交社)』▽『「戦後写真・再生と展開」(カタログ。1990・山口県立美術館)』▽『「写真家/福田勝治――孤高のモダニスト」(カタログ。1994・山口県立美術館)』