日本大百科全書(ニッポニカ) 「淵上白陽」の意味・わかりやすい解説
淵上白陽
ふちかみはくよう
(1889―1960)
写真家。熊本県に生まれる。本名清喜。佐賀および長崎で写真術を修得する。第一次世界大戦時の1914年(大正3)、青島(チンタオ)戦に従軍。18年に神戸市にスタジオを開設する。翌19年白陽画集社を設立。20年芸術写真の研究を目的とする「神戸赤窓(せきそう)会」を設立する。1910年代の終わりごろから芸術写真に深く関わるようになっていた淵上は22年、後に日本の構成派(構成主義)の活動の中核となる月刊写真雑誌『白陽』を創刊。また同年、芸術写真を指向するアマチュア写真家たちの全国組織を目指して日本光画芸術協会を設立した。写真を絵画に近づけることによって写真表現の芸術性を模索したそれまでの絵画主義(ピクトリアリズム)的写真からの脱却を目指し、主観的な自己表現の手段としての写真が注目されるようになっていたこの時期に、「マッスとラインとの有機的なはたらきによる抽象美」を提唱し、計算された構図と幾何学的な抽象性を重視した表現を追求する。『白陽』を発表の舞台としながら繰り広げられた斬新な表現による主張は当時の写壇に大きな影響力を及ぼした。しかし、構成派の表現様式のみが波及してゆくなか、淵上は自身が唱えた「光りと調子の美的表現」から次第に離れ、芸術表現の本質を問い直すようになってくる。
神戸から大阪へ出た後、『白陽』の後継誌として27年(昭和2)創刊した『フォトレビュー』誌では形式主義的なアカデミズムからの決別を明言し、様式的方法論への反発は既成芸術の批判にまで及んだ。構成派の退潮期にあたるこの時期、淵上は写壇から距離を置き、村山知義(ともよし)ら新興美術家たちと行動をともにするようになる。28年には日本光画芸術協会を辞し、南満州鉄道(満鉄)の誘いに応じて満州へ移住する。32年には満州写真作家協会を設立。33年のシカゴ万国博覧会「革新の一世紀」に、同協会所属作家による約100点の作品が出品される。また同年、満州国宣伝のためのグラフ雑誌『満州グラフ』(隔月刊)が創刊され、編集にあたる。国内で展開されていた新興写真が無機質的表現に特色が見られるのに対して、淵上は、芸術は媒体ではなく、人間の感性のなかに存在するとした「人間の芸術」を唱え、満州を舞台として、叙情性のなかにもリアリズムを投影させた表現を追求した。37年、大連へ渡り、関東軍、満州国国務院、満鉄での広報活動に専念する。同年、写真集『光る丘』、翌年には『満州写真読本』を刊行。広報や宣伝活動を通じて変化した淵上の理念は、写真の真実と実在性を発展させることが写真の芸術性につながるという考えに到達した。
41年には満鉄を辞して帰国。第二次世界大戦後は日本写真文化協会事務局主事を務め、53年(昭和28)、東京で写真文芸誌『ポエジー』を創刊。58年には写真集『満洲の回想』を刊行。60年2月8日死去。同日付で『淵上白陽遺作集』が刊行された。94年(平成6)には名古屋市美術館において「異郷のモダニズム 淵上白陽と満洲写真作家協会」展が開催された。
[神保京子]
『『満洲の回想』(1958・恵雅堂)』▽『『淵上白陽遺作集』(1960・ひかるおか社)』▽『東京都写真美術館編・刊『日本近代写真の成立と展開』(1995)』▽『『日本の写真家6 淵上白陽と満州写真作家協会』(1998・岩波書店)』▽『竹葉丈・三浦乃利子監修・編集「異郷のモダニズム 淵上白陽と満洲写真作家協会」(カタログ。1994・名古屋市美術館)』