精選版 日本国語大辞典 「自由民権」の意味・読み・例文・類語
じゆう‐みんけんジイウ‥【自由民権】
- 〘 名詞 〙 人民の自由と権利。
- [初出の実例]「即今県下にて自由民権の説を唱ふる者は県会議員、新聞記者并に免職官員の類にて」(出典:自由新誌‐明治一六年(1883)一月二七日)
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1870年代後半から80年代にかけて,政府の専制に反対し参政権と自由および自治を主張して,憲法制定,国会開設に至る状況をつくり出した国民的な運動。
1874年に征韓派の旧参議が提出した民撰議院設立建白書を端緒として,高知の立志社を先頭とする各地の士族結社による民権運動が始まり,77年の立志社建白,78年の愛国社再興に至った。一方,維新変革と地租改正,徴兵令などの諸改革の過程で政治的視野を拡大した豪農商層は,地方民会の設立を要求し,さらに78年の地方三新法によって設置された府県会を拠点として政治勢力を増大し,彼らを中心とする政治結社が各地に結成されて広範な政治参加の運動が広がった。これら士族および豪農商層の運動を促進したのはジャーナリスト,教員,開明派官吏などの都市知識人であり,80年には国会期成同盟が結成されて全国的な国会開設請願運動が展開され,翌年には開拓使官有物払下事件,明治14年の政変とともに政府に国会開設を予約させるに至った。以後自由民権運動は,政党結成(自由党,立憲改進党),勢力拡張(地方遊説や府県会議員組織),国会準備などの過程に入るが,政府の強圧によって活動の範囲をせばめられ,またその離間策動によって内部対立を深め,運動の勢力は伸びなやんだ。政府による弾圧の典型的な事例は82年の福島事件であるが,県会を拠点として県令と対決していた民権派の,一部激派が政府転覆を志向し,一部が地方農民の負担軽減運動に立ったという点で,民権運動激化の典型的な事例でもある。弾圧に憤激した激派は84年群馬事件,加波山事件などを起こし,蜂起,挙兵,政府高官暗殺などの直接行動によって政府転覆を企てるに至った。そして同年11月には,不況と負債にあえぐ借金党,困民党の運動を基盤として秩父の農民が蜂起し,革命の旗を掲げて郡内を制圧するという事件(秩父事件)が起こった。激化事件としては以後,飯田事件,名古屋事件,静岡事件などが数えられるが,いずれも決行に至らずに検挙された。
激派の行動と運動の不振に動揺した政党幹部は組織の維持を断念し,1884年自由党は解党し,立憲改進党は首脳が脱党し,自由民権運動は一時まったく沈滞した。しかし,86年ごろから民権派の統一と運動の立直しを図る大同団結の動きが起こり,翌87年には条約改正交渉の失態の暴露をきっかけに三大事件建白運動が盛り上がって,民権運動の勢力が回復しはじめた。政府はこの年の暮れの保安条例によって一時の鎮静化に成功したが,90年には旧自由党各派が結集して立憲自由党が結成され,立憲改進党とともに初期議会における民党勢力の配置を明らかにした。自由民権運動の終末ないし敗北をどの時点におくかは問題であるが,自由党解党をそれにあてる見解もあり,広く考えるとしても国会開設後の政党活動までを含めることは適当でない。それは明治憲法体制が成立したなかでの議会政党としての活動であり,次に述べるような民権運動の時代的特質に欠ける点があるからである。
自由民権運動の特質の第1は,明治国家の体制がまだ不安定であり,寡頭政府(藩閥政府)自身もその社会的基盤をどう組織するか確信をもてなかったような状況に対応して,運動がみずから国家体制を構築しようとする志向をもった点であり,この点で政府の体制模索と競合し対立した。自由民権運動における国会論や私擬憲法起草運動が注目されるのは,このためである。民権運動における体制論の主流はイギリス流の立憲政治論であった。君民共治,国約憲法,二院制議会,人権の保障などがその公約数的な主張だったが,その一方,一院制議会を適当とし,抵抗権・革命権に及ぶ徹底した人権確立を主張する意見があったことも無視できない。ここにはフランス革命やアメリカ独立運動から学んだ点も含まれている。激化諸事件の中にはロシアの虚無党(ナロードニキ)の運動への共感さえ見られるが,これらの欧米思想の影響のために自由民権運動を模倣的だと解するわけにはいかない。しかしこれら民権派の諸構想も,1881年の国会開設詔勅を転機として,プロイセン流の欽定憲法論をふりかざした政府の体制構築の前に圧倒されていった。政府も廃藩置県以来,国家富強の前提としての人権の解放や体制の安定化のための立憲制の導入などを,みずから唱えてきたのであるが,民権運動の高揚を前にしてこの時期から保守的な色彩を強めたのである。
第2の特質は,その国権的な主張,というより民権論と国権論の結合にあった。当時の日本の国際的位置,すなわち列強に対しては不平等条約下におかれた小国であり,またアジアの一国としては列強のアジア支配の脅威を間接に感じているといった状況に対応して,国権の回復ないし拡張の主張が民権論と結びついていた。その中心は不平等条約の改正による国権の回復であるが,士族民権派の対外論の一部には征韓論の流れをくむ武断的な対外進出論があり,またより穏和な形であれ東アジアに日本の勢威を伸ばしたいという欲求は,民権派の中に相当根強いものであった。一方,道義的な国際社会観,小国主義,平和主義などの主張もきわだっており,民権派の対外観を一律に論ずることは困難である。ただし,82年,84年の壬午軍乱,甲申政変を契機に政府の方針が大陸進出の方向に収斂(しゆうれん)してくると,民権派の主張もそれと重なり合う部分が大きくなり,87年に条約改正交渉が論難された際には国権論的な主張が民権論から離れて一人歩きしはじめた。国会開設請願運動の時期の,国権回復のための民権の確保,民権伸張の前提としての国権の維持,といった一体的な主張は失われていったのである。
第3の特質は,それが営業や生活・意識にわたる広範な革新の風潮を背景としていたということである。自由という言葉は,政治的自由を意味するだけでなく,個人の能力や欲望の解放をも意味した。民権運動の組織的母体となった各地の自発的政治結社は,多くの場合同時に新しい知識を吸収討議するための学習結社であり,新しい生産技術を実験するための産業結社でもあった。結社を支えたのは,豪農商層の経済的余力と士族を含む知識階級の成長にあった。そしてこれらの自発的結社には,自由民権運動が沈滞し政治の季節が去ったときに産業改良のための生産結社に転じたものが少なくない。一般的には,自由民権運動期においては自由・平等・人権などの主張が,主として政治的な性格を強く帯びたことは事実であり,それはこの時期の文学が多様な政治小説を生み出したことと照応している。
次に,自由民権運動の地域性や階層性についてふれておこう。士族結社の分布は比較的西南地方にかたよりがあり,これは前時代および維新期における武士階層の存在形態にかかわるものと考えられる。豪農商の民権運動や激化事件は東北地方南部から中部地方に至る地域に比較的強い。このことから,自由民権運動が一定度の経済発展と商品流通,生産の展開という条件のもとで生起したと考えることはできるが,これらの地帯が当時の商品生産の最先端地域とはいえないから,政治運動の発展を一義的に経済構造の変化から説明することには困難が伴うようである。前時代以来の地方社会のあり方,支配関係や名望家層の位置づけなど,また維新変革に伴う産業・文化の再編成の波及・衝撃の程度など,多様な条件をあわせて考えるべきなのであろう。
士族の民権,豪農の民権に対して,秩父事件などの動きを農民の民権と呼ぶこともある。借金党・困民党の運動にあらわれた小農・貧農のエネルギーと,豪農商層の上昇志向や士族的な志士精神に基礎をおく民権運動とは相当に異質であり,秩父や群馬以外の地域では両者が交わらないか,または対立することが多かったようである。地域性という観点からすれば,都市の民権派,反政府運動が民権思想の高揚・普及や運動の全国的結合の刺激剤として果たした役割を無視できない。東京を中心とする大都市には,前述の知識人的要素が集中していたからであるが,当時の都市の構造からして,都市に固有の小市民が大きな役割を果たしたとまでは考えにくい。一方,運動全体として見れば,地域差や割拠性を強く残しており,明治政府の急激な中央集権化と制度的画一化に対抗する関係にあっただけに,地方分権や地方自治がその主張の一部をなしていた。経済政策の側面に置きかえれば,政府・政商主導型の急速な資本主義化に対抗して,より漸進的な民富形成を志向する傾向が強かったといえよう。最後に特別な地域として,明治憲法体制の中でも平等な権利(地方議会設置や国会議員選出)を与えられなかった沖縄や北海道などの地域がある。これらの地域では,国会開設以後に自治運動や参政権運動が起こってくるが,これらもまた一種の自由民権運動と見なしてよいであろう。
以上のように自由民権運動は,国家体制の形成期であり国際関係が流動的であるという条件のもとで,また欧米諸国の自由と民主主義の理論を吸収利用できるという条件のもとで展開された,いくらか早熟な民主主義運動であった。比較的短命に終わった運動であるが,その成果は単に憲法や国会を実現し,のちの政党運動の基礎を築いたというにとどまらない。明治憲法体制以外のさまざまな体制を構想し,国民の自発的結集のさまざまな形態を模索し,自由,人権,平等,平和などの理念についての立ち入った考察を残したという点で,国民の貴重な経験であり,遺産となったということができよう。
執筆者:永井 秀夫
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…そのため土地制度,租税制度,地方制度などの改革は大きく遅れることとなる。と同時に当時の日本政府は,自由民権運動の高揚の対応に全力を注ぎ,沖縄に深く関わるだけの余力をもっていなかった。 日本政府の旧慣存置の政策によって,沖縄社会はその発展を抑制された。…
…歴史学上での時期区分からすれば,1853年(嘉永6)ペリーの来航に始まる幕末・維新期の激動の時代から,明治天皇の没後に新しい時代の台頭を象徴する事件として生起した大正政変のころまでを指すのが適切であろう。さらに,明治時代を時期区分するとすれば,まず1877年の西南戦争までの明治維新期,ついで1890年までを自由民権運動と明治憲法体制の成立の時期として区切ることができ,さらに日清戦争を経て1900年前後までの帝国主義成立期,それ以後の日露戦争をはさむ帝国主義確立の時代に区分することが可能である。
【維新の変革】
ペリー来航を契機とする幕末の激動は,尊王攘夷運動から公武合体運動を経て討幕運動へ,京都朝廷を擁して新しい政治体制を創出しようとする政治勢力と,徳川幕藩体制を再編して将軍を中心とする支配体制を温存しようとする勢力とが直接対抗する政治情勢を軸に展開する。…
※「自由民権」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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