松方財政 (まつかたざいせい)
明治14年(1881)10月の政変で大蔵卿となった松方正義によって行われた紙幣整理を中心とする財政政策の通称で,それは激しいデフレーションを引き起こしたため松方デフレ政策とも呼ばれる。
明治維新後,政府は富国強兵,殖産興業,秩禄処分等の政策を遂行するため巨額の不換紙幣と国債を発行したが,そのために,とくに1877年の西南戦争の戦費支出のための紙幣増発を契機として,79-80年に激しいインフレーションが起きた。すなわち,物価が騰貴し紙幣価値が下落したことによって銀貨と紙幣の比価が乖離(かいり)し,また,国際収支の悪化は正貨を流出・枯渇させ,金利が高騰し投機が流行して生産資金の欠乏を招いた。この結果,租税の実質収入が減少して財政が困難に陥ったのである。このような財政経済危機に当面して,当時の財政の実権者であった大隈重信は,79年に国債紙幣消却計画を立てて紙幣整理に着手し,さらにインフレの高進に対応して80年には外債を主たる財源として一挙に紙幣を消却し正貨通用制を樹立する案を立てたが,その案は政府部内で猛烈な反対にあって否定され,大隈の権威は失墜した。80年後半に,当時の政府の最高の実力者伊藤博文と大隈との協力により,租税増徴,行政整理による経費節約,一部の国家経費の地方財政への転嫁,官営事業の払下げ,輸出増進による正貨獲得等によって,できるだけ紙幣消却を行う政策が確定した。
明治14年の政変で失脚した大隈に代わって財政の実権者となった松方は,紙幣整理には漸進主義をとりながら,いかなる反対にあうとも断固遂行する強硬方針を立て,紙幣整理政策を完遂していった。松方は基本的にはすでに確定していた紙幣整理方針を継承したが,松方の政策が大隈のそれと異なるのは,大隈のように国債発行によって紙幣を全額消却し正貨通用制に変えるのではなく,一方で紙幣を消却しつつ,他方で財政収入から剰余金を捻出して正貨を買い入れ,またはそれを準備金として運用して正貨を蓄積し,しかも同時に中央銀行を設立して通貨・信用制度の整備をはかり,紙幣価値の回復をまって不換紙幣を兌換(だかん)銀行券に切り替えようとした点である。貿易金融政策においても松方は,横浜正金銀行を設立して直輸出を奨励した大隈の政策を基本的には継承したが,準備正貨を増殖するための正貨獲得という政策目的を明確にし,そのためには殖産政策の一つの柱であった内地荷為替の一時停止さえ行った。こうして,紙幣流通量は1880年1月の1億7000万円から84年5月には1億2500万円まで減少し,銀貨と紙幣の比価が安定し,正貨蓄積も進んだため,同月に兌換銀行券条例が公布され,翌年5月から日本銀行(1882年10月創立)から兌換銀行券が発行されて,銀本位制の兌換制度が確立した。
松方による紙幣整理の中途の1882年7月,朝鮮に壬午軍乱が起こると,政府はこれを機に対清戦争をめざす本格的な軍備拡張8ヵ年計画を立てた。松方は紙幣整理の大事業を維持しつつ軍備拡張の財源を得るため,酒造,煙草税を再増税し売薬印紙税等を新設したが,それは不況下で実質的に増額していた国民の租税公課負担を一段と強めるものであった。しかもそれに1882-83年の世界恐慌の波及が重なったため,不況をとりわけ深刻化させ,とくに当時国民の大多数を占めた農民の経済生活を解体の危機に陥れた。租税公課の納入に窮し,負債の累積に苦しむ農民たちは,その所有耕地を失って小作農民に転落していった。松方による近代的通貨・信用制度の確立を前提として,86年から企業勃興期が始まるが,それは同時に農村における地主・小作関係の全国的拡大の過程でもあった。
執筆者:大石 嘉一郎
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松方財政
まつかたざいせい
1880年代に大蔵卿松方正義が推進した財政政策。1881年10月北海道開拓使官有物払下げ事件による政変によって下野した大隈重信に代わって松方正義が大蔵卿に就任。松方は大隈財政末期に着手された紙幣整理をより徹底して行なうとともに,1882年ベルギーの中央銀行制度を原型に日本銀行を創設,1885年には兌換銀行券条例に基づき兌換券(銀貨兌換)を発行,1886年兌換開始,近代的信用制度の確立をはかった。紙幣整理は西南戦争の過程で増発された不換紙幣を整理し,インフレーションを抑制するためのものであった。増税,官業払下げ,歳費削減などの緊縮財政の実施によって強行されたため,自作農民のー部は都市流入または小作人への道をたどり,産業資本確立の前提条件である賃金労働者を形成すると同時に,農村の資本主義化の担い手であった地主豪農層の寄生地主化を促した。また養蚕・製糸業地帯を中心に自由民権運動が激化し,負債返弁騒擾が頻発するなど松方デフレと呼ばれる深刻な不況を引き起こした。しかし 1886年兌換制度が確立されると低金利政策が実施され,第1次企業勃興の引き金となった。後期には海軍の軍備拡張費調達,地方産業改良などのための外資導入が政策課題となり,松方は金本位制度導入の準備に着手,貨幣制度調査会,貨幣法制定を主導した。かつては大隈財政=積極財政,松方財政=緊縮財政と単純化してとらえる傾向にあったが,近年の研究では大隈財政から松方財政への連続性が強調され,新たな定説となっている。
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松方財政
まつかたざいせい
1881年(明治14)10月の政変で大隈重信(おおくましげのぶ)が失脚したのち、松方正義(まさよし)が大蔵卿(きょう)(後に初代大蔵大臣)となって展開した財政・経済政策の通称。松方は大隈財政の政策基調を踏襲しながらも、とくに次の二点を重点的に推進した。
第一は、西南戦争に端を発したインフレーションの終息である。明治政府は、富国強兵、殖産興業、秩禄(ちつろく)処分などの政策遂行のため各種の不換紙幣を発行してきたが、とくに1877年の西南戦争の戦費として巨額の不換紙幣を増発したため、激しいインフレーションを引き起こした。松方は、一般財政収入から資金を捻出(ねんしゅつ)し、その一部を直接に不換紙幣の償却など紙幣整理にあて、他の一部で正貨を買い入れて正貨準備の拡充を図り、82年には日本銀行を設立し、兌換(だかん)制度を確立した。同時に増税によって財政赤字を削減したため、通貨は縮減し、インフレーションからデフレーションに転じた。
第二は、殖産興業政策の大転換である。それまで官営工業は多額の政府投下資本も回収できぬまま財政欠損を増加させていたが、これの民間への払下げを一挙に実施し、これによって資本主義的経営が民間に基礎を据えることになった。また、農商務省の創設、生糸輸出振興のための貿易金融制度の創設など、海外市場開拓のための積極策をとった。
このように官業払下げを転機として政商資本の発展を促進すると同時に、紙幣整理を通じて農民層分解により発生する没落中小農民層を、一方では払下げを受けた民間資本に従属する賃労働者として、他方では地主制のもとに小作人として配置する本源的蓄積を強行したのが松方財政であったといえよう。これを受けて、日本資本主義は1880年代の後半、産業革命期を迎えることになるのである。
[一杉哲也]
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松方財政
まつかたざいせい
1881~92年(明治14~25)に松方正義が大蔵卿・蔵相として主導した財政・金融政策。兌換制度の成立を画期に前期と後期にわけられる。大隈財政末期に兌換制度への移行のため緊縮財政に転換していたが,大隈重信が通貨流通量維持に固執したのに対し,前期松方財政では緊縮財政で確保した剰余金で正貨を蓄積し,不換紙幣回収による通貨収縮を実行した。増税による軍拡や公債政策にしても,紙幣整理と両立する方法を採用した。その結果松方デフレを招いたが,85~86年に銀本位制を確立。後期は税収停滞を前提に緊縮財政を維持,その範囲内で公債政策により軍拡・鉄道などの財政資金を調達した。金融政策では通貨収縮方針を放棄し,日本銀行が兌換券を増発して公債抵当を中心に国内民間金融を拡大,通貨安定を前提に始まった企業勃興への資金供給と民間金融市場における公債消化を可能にした。こうして松方財政は,貿易収支が安定するなかで外資に依存せずに日本の資本主義化の基盤を形成した。
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松方財政【まつかたざいせい】
松方正義が大蔵卿・蔵相に在任した1881年―1898年ころの財政政策の総称。そのおもな内容は紙幣整理事業,特に日本銀行の創設と兌換(だかん)銀行券の発行,殖産興業政策の転換すなわち政商への官業払下げと重点的保護政策,緊縮財政と増税の断行,軍備拡張政策などで,日本資本主義成立期に大きな意味をもった。
→関連項目興業意見|若尾逸平
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松方財政
まつかたざいせい
明治中期,大蔵卿松方正義による財政政策
松方は1881年から大蔵卿(のち大蔵大臣)として,紙幣整理・兌換制度の確立,日本銀行の設立,官営事業払下げなど財政確立政策を進めた。西南戦争後のインフレに対してきびしいデフレ政策をとったため,重税と物価低落により,商業的農業や農村工業を圧迫し,中小地主の中には没落して小作人や労働者となる者も出たが,この時期に産業資本確立の基盤が形成された。
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世界大百科事典(旧版)内の松方財政の言及
【松方正義】より
…松方の財政は,貨幣価値の下落を防ぎ,直輸出政策によって紙幣整理・準備金の増殖をめざそうとしていたため,外債によって紙幣整理を断行しようとしていた大隈財政とは対立する立場にあった。[明治14年の政変](1881)で大隈が失脚するや,参議兼大蔵卿となって,松方財政,いわゆる松方デフレ政策を推進した。松方は兌換制を確立し,安定した近代的通貨体制をつくるために1882年,日本銀行を創設した。…
【明治時代】より
…こうした民権派の活動は,西南戦争以後に,高進していたインフレーションによる経済活動の活性化や,地方の商工業者による新しい事業,地主や農民による農業経営の拡大など,地域社会の活気に依拠していた。
[自由民権運動の衰退]
ところが1881年大蔵卿に松方正義が就任して財政改革に着手し,紙幣整理と増税政策を採用する,いわゆる松方デフレが進行すると,中小資本家や地主・農民は深刻な不況の中で生活破綻に追い込まれた([松方財政])。税金の滞納のため,土地や財産が競売に付され,83年以降土地を失う地主や農民が激増し,高利貸からの借金を返済できないで身代限りになる者も数万人を数えた。…
※「松方財政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」