長野、愛知両県下の自由民権派による挙兵計画。愛知県の旧田原(たはら)藩士族村松愛蔵は、1883年(明治16)春、名古屋区小市場町に公道館を設け、1884年4月ごろから同志八木重治、川澄徳次らと立憲政体樹立のため挙兵計画をたて、檄文(げきぶん)5万部を印刷し、東京、大阪など各地に同時に撒布(さんぷ)することを決定した。川澄は飯田の愛国正理社社長桜井平吉にも同意を求め、また名古屋鎮台看護卒中島助四郎は1884年6月に脱営して、檄文撒布計画を進めるため7月に上京した。その直後に村松、川澄、桜井らも上京したが、檄文印刷の資金が思うにまかせず引き返した。村松らは挙兵方針を貫くため9月から11月にかけて組織活動を続け、八木が起草した檄文を蜂起(ほうき)を呼びかける檄文につくりかえ、愛国義党、自由革命、天誅(てんちゅう)、自由万歳、租税軽減、徴兵令改正、印紙税廃止、貧民救恤(きゅうじゅつ)の旗章を制定した。その直後村松らは田原方面に、川澄は愛国正理社を訪ねて桜井に蜂起の同意を得て遠山地方に赴き、南和田村の正理社員遠山八郎、米山房太郎、米山吉松らに挙兵計画を打ち明けたが、米山吉松が飯田警察署和田分署に密告したため、川澄と正理社幹部小塩周次郎は12月3日飯田署員に逮捕された。桜井は、同志を募るため松本、長野、小諸(こもろ)から軽井沢を歴訪し、帰路、上伊那(かみいな)郡高遠(たかとお)町の同志稲沢鎌八方に立ち寄ったが、稲沢に伊那分署に密告され逮捕された。こうして飯田事件は事前に発覚した。名古屋側では11名が、飯田側では17名が逮捕された。村松、八木、川澄、桜井、江川甚太郎、中島の6名は内乱陰謀罪で軽禁獄7年から1年の刑、他は無罪放免された。
[後藤 靖]
『後藤靖著「飯田事件裁判記録」(『立命館法学』所収・1957)』▽『手塚豊著『自由民権裁判の研究 中』(1982・慶応通信)』
1884年(明治17)12月に起こった自由民権運動の激化事件の一つ。愛知県田原の自由党員村松愛蔵,川澄徳次,八木重治らは同年4月ころから立憲政体の樹立を意図し,人心覚醒のため秘密出版を計画し,飯田の愛国正理社桜井平吉らと連絡をとり,8月には自由党本部の協力をもとめ植木枝盛に草案の起草を依頼した。八木は徴兵され名古屋鎮台の一兵卒であったが,営内で若干の同志を組織し,脱営して合流した。また愛国正理社は8月に飯田周辺で一揆を起こした農民を組織し挙兵の準備を進めた。だが資金難のため印刷ははかどらず,しかも自由党は10月末に解党した。11月に秩父事件が起こるや村松らはただちに挙兵に決し,信州と三河で同時に挙兵組織にとりかかり,植木起草の檄文に加筆して蜂起の趣意書とし,租税軽減,徴兵令廃止,印紙税廃止,貧民救護のスローガンや暗号を定め,厳格な軍令まで定めた。蜂起の計画は名古屋鎮台と監獄を破壊して兵卒,囚人をも同志に引き入れ,伊那から進んで甲府の貧民と合流し,東京に出て天下に義挙をよびかけるというものであった。だが,その蜂起のための爆弾製造の材料として購入した薬品から計画が露呈し,12月初旬に指導者らは各地で逮捕された。85年11月に長野重罪裁判所で村松以下6名は内乱陰謀罪で投獄されたが,憲法発布の際の大赦により出獄した。
執筆者:後藤 靖
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1884年(明治17)愛知県田原(たはら)の公道協会,長野県飯田の愛国正理社社員,急進派自由党党員らによる政府転覆挙兵未遂事件。租税軽減・徴兵令廃止・貧民救恤(きゅうじゅつ)などをスローガンに,名古屋鎮台を攻略し,監獄を破壊して囚徒を兵士とし,伊那から甲府地方の貧民を糾合して挙兵する計画であった。しかし事前に発覚して,12月村松愛蔵ら首謀者が逮捕され,内乱陰謀罪で処断された。挙兵のための檄文は植木枝盛(えもり)の起草。
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