田代栄助
たしろえいすけ
(1833―1885)
秩父(ちちぶ)事件の総理(最高指導者)。武蔵(むさし)国秩父郡大宮郷(おおみやごう)(埼玉県秩父市)の旧家に生まれる。生来の侠気(きょうき)から農業のかたわら貸借上の仲裁などを引き受けていた、親分というべき人物である。1884年(明治17)2月自由党に入党を申し込み、秩父困民(こんみん)党の結成が進むと招請され、9月これに参加した。高利貸の説諭請願運動が行き詰まったため、困民党は蜂起(ほうき)に傾き、田代らは資金調達のため強盗を行った。11月1日下吉田(秩父市)の椋(むく)神社で蜂起し、田代は総理となり、その日小鹿野(おがの)、2日大宮郷に侵入して官庁を占領し、高利貸を襲撃した。3日皆野(みなの)に向かう途中持病を発し、4日午後になると戦意を喪失して本陣を離脱した。いったん山中に隠れたが、14日人里に出て逮捕され、翌年5月、熊谷(くまがや)において処刑された。
[井上幸治]
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田代栄助 (たしろえいすけ)
生没年:1834-85(天保5-明治18)
秩父事件の困民軍総理。大宮郷(現,秩父市)の名門の出で,農業のかたわら俠気から仲裁や訴訟に携わる。1884年,秩父郡西部で困民党が結成されると請われて幹部となり,軍資金奪取のため強盗をおこない,11月1日蜂起に際しては総理となった。関東一斉蜂起論に幻想を抱いたが,比較的穏和で,高利貸打倒を目標とした。小鹿野町から大宮,皆野に進撃したが,4日には士気阻喪し,本陣を解体して秩父山中に姿を隠し,9日逮捕された。翌年2月死刑の宣告を受け,5月処刑された。
執筆者:井上 幸治
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田代栄助
たしろえいすけ
[生]天保5(1834).1. 秩父
[没]1885.5.18. 熊谷
1884年の秩父事件の農民軍指導者。田代源佐衛門嘉之の5男,同郷の田代関次郎の養子。農業を営むかたわら,三百代言の稼業もした。当時,秩父地方は,松方正義のデフレ政策の影響で倒産が続出し,土地を逃げ出す者が多かったので,田代は 1883年の秋頃から,負債延期運動を落合寅市,井上伝蔵らとともに推進し,役所などに訴えたが聞き入れられなかった。 1884年2月自由党の大井憲太郎の遊説を機として秩父自由党が結成され,それが困民党,負債党などの組織をつくり,ついに同年 11月1日田代,加藤織平が総大将となって蜂起。1万人余の勢力で高利貸しの家,警察,役所などを襲撃,占拠したが数日のうちに軍隊,警官隊によって鎮圧された。田代は敗走後,捕えられ,1885年5月 18日殺人,強盗,放火などで死刑に処せられた。
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田代 栄助
タシロ エイスケ
- 生年月日
- 天保5年8月14日(1834年)
- 出生地
- 武蔵国秩父郡(埼玉県)
- 経歴
- 生家は江戸時代は名主であったが維新後没落、俠客とも三百代言ともいわれた。明治17年井上伝蔵、加藤織平らの要請で秩父困民党の最高指導者に迎えられ、借金10年据え置き、40年賦返済、学校費・雑収税・村費減免を要求する請願運動を展開した。武装蜂起の延期を主張したが、急進論に押され、同年11月困民軍の総理として6300余名を率いて蜂起を決行した。本陣は崩壊、敗走して山中にひそんだが密告により捕まえられ、18年副総理・加藤織平らとともに死刑となった。
- 没年月日
- 明治18年5月17日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
田代栄助
没年:明治18.5.17(1885)
生年:天保5.8.14(1834.9.16)
明治時代前期の侠客,秩父事件の中心人物。武蔵国秩父郡(埼玉県)大宮郷字熊木の旧家に生まれる。明治17(1884)年9月井上伝蔵らに請われて秩父困民党の最高幹部となり,11月1日秩父事件蜂起に際し,困民党軍総理に選ばれた。しかし3日後には戦線から離脱・敗走,まもなく逮捕され,翌18年2月死刑判決を言い渡され,5月17日熊谷監獄で処刑された。田代の戦線離脱については,持病再発説と変心説の両説がある。<参考文献>千嶋寿『困民党蜂起』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
田代栄助 たしろ-えいすけ
1834-1885 明治時代の自由民権運動家。
天保(てんぽう)5年8月14日生まれ。農業のかたわら訴訟や談判の仲裁役などをつとめる。明治17年秩父困民党に参加し,同党蜂起(ほうき)の際に推されて総理となった。進撃の途中本陣を離脱し,潜伏中捕らえられ,明治18年5月17日処刑された。52歳。武蔵(むさし)秩父郡(埼玉県)出身。
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世界大百科事典(旧版)内の田代栄助の言及
【秩父事件】より
… 1884年8月,生糸の安値に絶望的になった負債農民の山林集会は主として秩父西部でしきりに繰り返され,そのつど警官に解散させられたが,この間に[困民党]の組織の輪は広がっていった。9月に32ヵ村にわたって在地オルグによる指導組織ができあがると,大宮郷(現,秩父市)の[田代栄助]が招請され,加藤織平,[井上伝蔵]らと幹部集団を形成した。こういう動員組織の確立する過程で農民にとって困民党参加は自由党加盟と同じ意味となり,自由党盟約は農民的に読み替えられ,生存維持の現実問題となり,〈板垣さんの世直し〉が標語となる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」