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大井憲太郎 おおいけんたろう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大井憲太郎
おおいけんたろう

[生]天保14(1843).9.20. 豊前,宇佐
[没]1922.10.15. 東京,牛込
政治家,社会運動家。 20歳のとき長崎で蘭学を学び,のち江戸に出て幕府の開成所舎密局世話心得となる。明治維新後,自由民権運動急先鋒として活躍。フランス革命思想に感じ,『仏国政典』『仏国民選議院選挙法』を邦訳する一方,1874年の民撰議院設立建白書に関して尚早論の加藤弘之と論戦した。

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デジタル大辞泉の解説

おおい‐けんたろう〔おほゐケンタラウ〕【大井憲太郎】

[1843~1922]社会運動家。大分の生まれ。自由民権運動の指導者で、明治15年(1882)自由党に加わる。朝鮮政府の改革を意図して大阪事件を起こし、入獄。同25年東洋自由党を結成。労働者・小作人の保護に尽力。著「時事要論」「自由略論」。

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百科事典マイペディアの解説

大井憲太郎【おおいけんたろう】

政治家。豊前(ぶぜん)国宇佐郡の生れ。馬城と号す。箕作麟祥(みつくりりんしょう)にフランス法学を学ぶ。兵部省,元老院に出仕。その間民撰議院設立建白書をめぐり加藤弘之時期尚早論に反対。
→関連項目東京曙新聞福田英子普通選挙期成同盟会

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大井憲太郎 おおい-けんたろう

1843-1922 明治時代の自由民権運動家。
天保(てんぽう)14年8月10日生まれ。大井卜新(ぼくしん)の養子。長崎で蘭学を,江戸でフランス語をまなぶ。明治7年の民撰議院設立論争以後,急進派として活躍。18年大阪事件の首謀者として逮捕される。大赦後,東洋自由党を結成。27年衆議院議員。大正11年10月15日死去。80歳。豊前(ぶぜん)宇佐郡(大分県)出身。旧姓は高並。幼名は彦六。号は馬城。

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朝日日本歴史人物事典の解説

大井憲太郎

没年:大正11.10.15(1922)
生年:天保14.8.10(1843.9.3)
明治期の自由民権家,社会運動家。豊前国宇佐郡高並村(大分県宇佐郡院内町)農民高並彦郎とサノの3男。彦六,大輔とも。文久1(1861)年長崎に出て蘭学,英学を学び,大井卜新の知遇を得て大井姓を名のる(明治10年養子入籍)。慶応1(1865)年から開成所でフランス語,化学を学び,戊辰戦争(1868~69)では幕府大砲隊に編入され,戦後謹慎処分。のち箕作麟祥に師事し,兵部省,陸軍省に勤め『仏国政典』などを翻訳。また,馬城台二郎,馬城山人の名で新聞に投書,特に民選議院早期開設論で注目される。明治8(1875)年5月元老院少書記官(翌年2月免官)。その後は私塾で法学を教え,代言人(弁護士)として活動するかたわら,自由民権運動の急進派リーダーとなる。18年,一連の朝鮮独立運動に連動する形で国内改革を図る大阪事件を計画して重懲役9年。22年憲法発布の大赦で出獄。23年『あづま新聞』創刊。自由党主流と対立し25年東洋自由党を結成するが,次第に対外硬派に接近。労働・小作問題,普通選挙などにも強い関心を示す。日露戦争(1904~05)後,満州(中国東北部)の困窮日本人の授産事業に従事し,晩年は南満州鉄道株式会社から年金を受けた。ギリシャ正教を信仰し,朝食にはオートミールカーネーションミルクを好んだといわれるが,「国家の安定」を究極の目標とする国士的発想が濃厚だった。<著作>『時事要論』『自由略論』<参考文献>平野義太郎,福島新吾編著『大井憲太郎の研究』(『馬城大井憲太郎伝』復刻版別冊,1968)

(牧原憲夫)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

おおいけんたろう【大井憲太郎】

1843‐1922(天保14‐大正11)
自由民権運動左派の指導的な理論家,政治家。豊前の生れ。長崎で蘭学を修め,江戸の開成所舎密局(せいみきよく)に勤め,明治に入り箕作麟祥についてフランス流政治学を学ぶ。フランス政治書の翻訳などを通じてみずから政治思想を培い,1874年(明治7)の民撰議院設立論争には馬城台二郎の名をもって参加し,加藤弘之の民撰議院設立尚早論に反駁,徹底した民権論を展開した。その後民権運動の中心にあったが,82年以降の弾圧期に朝鮮内政改革を企てたいわゆる大阪事件(1885)をおこし,重懲役9年に処せられた。

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大辞林 第三版の解説

おおいけんたろう【大井憲太郎】

1843~1922) 社会運動家。豊前ぶぜんの人。自由党左派の中心として自由民権運動を推進。1885年(明治18)に大阪事件を起こし入獄。92年東洋自由党を結成し、労農運動を推進した。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大井憲太郎
おおいけんたろう
(1843―1922)

自由民権運動の指導者。天保(てんぽう)14年8月10日生まれ。幼名高並彦六。豊前国(ぶぜんのくに)(大分県)宇佐郡高並村に生まれる。1862年(文久2)長崎で蘭学(らんがく)、舎密学(せいみがく)(化学)を学び、1866年(慶応2)幕府開成所舎密局の世話心得となる。1868年(明治1)箕作麟祥(みつくりりんしょう)の門に入ってフランス学を学ぶ。このとき大井憲太郎と改める。1871年兵部省に出仕、1873年陸軍省八等出仕、1875年元老院法律調査局少書記官に任命されたが、1876年辞職。1874年の民撰(みんせん)議院設立をめぐる論争に際し、馬城台二郎の筆名で納税者全員に参政権を与えよという急進論を説き、1877年に民権思想普及のため講法学社を設立し、また明法社を開く。1880年国会期成同盟に加わり、1882年には自由党常議員として関東一円に大きな影響力をもった。高田事件、福島事件、加波山事件(かばさんじけん)の弁護士を引き受け、1885年には大阪事件の首謀者として逮捕され、1888年に懲役9年の刑を受けたが、1889年2月憲法発布の大赦で出獄、ただちに大同団結運動に加わり、大同協和会を組織し、1890年2月には板垣退助(いたがきたいすけ)とともに自由党を再興し、2月立憲自由党に改組して常議員となる。12月『あづま新聞』を創刊。1892年2月第2回総選挙で大阪第6区から立候補したが落選、2月自由党を脱党し、11月東洋自由党を結党し、また普選同盟会を結成した。1894年3月の第3回総選挙では、大阪第8区で当選し、対外硬派となる。同年9月の選挙で落選したが、1898年7月憲政党の総務委員となる。同年8月の選挙にも落選し、11月には憲政本党に所属し総務委員となったが、1899年2月には脱退。同年6月大日本労働協会、小作条例期成同盟会を組織したが、1901年(明治34)5月に解散し、1905年渡満、病を得て1917年(大正6)に帰国。大正11年10月15日死去。著書に『自由略論』『時事要論』などがある。[後藤 靖]
『平野義太郎著『馬城大井憲太郎伝』復刻版(1968・風媒社) ▽『明治文学全集12 大井憲太郎集』(1973・筑摩書房)』

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世界大百科事典内の大井憲太郎の言及

【大阪事件】より

…大阪で同志が逮捕されたのでこう呼ばれる。壬午軍乱(1882),甲申政変(1884)で朝鮮における親日派の後退を見た自由党左派の首領大井憲太郎は,1885年11月小林樟雄,磯山清兵衛,新井章吾,稲垣示らと謀り,壮士を率いて渡韓,事大党(閔妃政権)を倒して独立党政権を樹立する計画を進めたが,磯山の変心で発覚し一同逮捕された。計画そのものはずさんで関係者の意図もまちまちであったが,おおよそのところは朝鮮独立を達成することで国民の眼を外に転じ,刺激を与えることで内政改良へと向かわせようという点にあった。…

【清水紫琴】より

…他方,明治女学校で作文を教え,《こわれ指輪》(1891)などの小説を書く。大井憲太郎と恋愛し男児をもうけるが別れる。92年,のちに東京帝大総長となる古在由直と再婚。…

【大アジア主義】より

… 植木枝盛は自由民権の立場から,アジア諸民族の自由平等を守るべく,欧米に対する抵抗を正当化し,連帯の必要を説き,世界政府論を掲げた。大井憲太郎は,朝鮮の改革と日本の対外進出を関連させつつ,アジア諸国の〈愛国の心〉と〈自治の精神〉の誘起を図ろうとした。また樽井藤吉は,白人の侵略に共同防衛するには,〈各邦の自主自治の政をして,均平に帰せしむ〉日韓の合邦が必要だとした。…

【東洋自由党】より

…1892年11月,大井憲太郎,小久保喜七,樽井藤吉らが結成した政党。議会開会以来,大井らは自由党に不満をもち急進自由主義を掲げる非政社団体東洋俱楽部をつくっていたが,星亨との軋轢(あつれき)を深め脱党,〈自由軍の別動隊〉として東洋自由党を結成した。…

【福田英子】より

…また岡山に自由民権運動が波及すると女子懇親会を開くなどしたが,84年集会条例により学舎は閉鎖命令をうける。同年秋,上京し,大井憲太郎らと自由民権運動を進め,85年には朝鮮の内政改革運動に参加して資金調達などを担当し,逮捕,投獄され(大阪事件),紅一点として有名になる。89年出獄。…

【老壮会】より

…会としての一定の主義・方針はなく,内外の諸問題について意見を交換し研究することを目的としていた。満川や大川周明をはじめとする後年の国家主義運動の指導者ばかりでなく,堺利彦,高尾平兵衛などの社会主義者,高畠素之などの国家社会主義者や,大井憲太郎,嶋中雄三,下中弥三郎,権藤成卿,中野正剛など多彩な人々が参加したことに特色があった。満川が猶存社の活動に力を入れるにしたがって老壮会の活動はしだいに衰えたが,22年まで44回の会合を開き,500名をこえる参加者があったといわれる。…

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