自由民権運動の指導者。天保(てんぽう)14年8月10日生まれ。幼名高並彦六。豊前国(ぶぜんのくに)(大分県)宇佐郡高並村に生まれる。1862年(文久2)長崎で蘭学(らんがく)、舎密学(せいみがく)(化学)を学び、1866年(慶応2)幕府開成所舎密局の世話心得となる。1868年(明治1)箕作麟祥(みつくりりんしょう)の門に入ってフランス学を学ぶ。このとき大井憲太郎と改める。1871年兵部省に出仕、1873年陸軍省八等出仕、1875年元老院法律調査局少書記官に任命されたが、1876年辞職。1874年の民撰(みんせん)議院設立をめぐる論争に際し、馬城台二郎の筆名で納税者全員に参政権を与えよという急進論を説き、1877年に民権思想普及のため講法学社を設立し、また明法社を開く。1880年国会期成同盟に加わり、1882年には自由党常議員として関東一円に大きな影響力をもった。高田事件、福島事件、加波山事件(かばさんじけん)の弁護士を引き受け、1885年には大阪事件の首謀者として逮捕され、1888年に懲役9年の刑を受けたが、1889年2月憲法発布の大赦で出獄、ただちに大同団結運動に加わり、大同協和会を組織し、1890年2月には板垣退助(いたがきたいすけ)とともに自由党を再興し、2月立憲自由党に改組して常議員となる。12月『あづま新聞』を創刊。1892年2月第2回総選挙で大阪第6区から立候補したが落選、2月自由党を脱党し、11月東洋自由党を結党し、また普選同盟会を結成した。1894年3月の第3回総選挙では、大阪第8区で当選し、対外硬派となる。同年9月の選挙で落選したが、1898年7月憲政党の総務委員となる。同年8月の選挙にも落選し、11月には憲政本党に所属し総務委員となったが、1899年2月には脱退。同年6月大日本労働協会、小作条例期成同盟会を組織したが、1901年(明治34)5月に解散し、1905年渡満、病を得て1917年(大正6)に帰国。大正11年10月15日死去。著書に『自由略論』『時事要論』などがある。
[後藤 靖]
『平野義太郎著『馬城大井憲太郎伝』復刻版(1968・風媒社)』▽『『明治文学全集12 大井憲太郎集』(1973・筑摩書房)』
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自由民権運動左派の指導的な理論家,政治家。豊前の生れ。長崎で蘭学を修め,江戸の開成所舎密局(せいみきよく)に勤め,明治に入り箕作麟祥についてフランス流政治学を学ぶ。フランス政治書の翻訳などを通じてみずからの政治思想を培い,1874年(明治7)の民撰議院設立論争には馬城台二郎の名をもって参加し,加藤弘之の民撰議院設立尚早論に反駁,徹底した民権論を展開した。その後民権運動の中心にあったが,82年以降の弾圧期に朝鮮内政改革を企てたいわゆる大阪事件(1885)をおこし,重懲役9年に処せられた。89年憲法発布で大赦出獄,90年中江兆民らと立憲自由党を設立したが,自由党の議会政党化にあきたらず,92年脱党して東洋自由党を結成した。アジア変革の指導者として東洋経営の国是を定めようとする国権論を掲げるとともに,労働者,細民の運動を促進した。やがて外人の内地雑居に反対する大日本協会に参加し,対外硬派の運動を担った。99年大日本労働協会,小作条例期成同盟会を組織,翌年普通選挙同盟会の評議員となり再び労働者,細民の運動を展開した。1902年海外移民調査会を作り,移民事業への関心を示し,05年満州に渡り翌年関東州労働保護会を組織し,労働者をはじめとする満州移民を奨励したが,もはやそこにはアジア民族への連帯の志向は失われ,大陸浪人一般となんら変わらぬ侵略主義が見られるのみであった。〈民権と国権の確立〉を同時的課題とせざるをえなかった近代日本の思想の苦悩の軌跡といえる。
執筆者:広瀬 玲子
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明治期の政治家,自由民権運動家,社会運動家 衆院議員(憲政党)。
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(牧原憲夫)
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1843.8.10~1922.10.15
明治・大正期の政治家。本姓は高並,幼名彦六,号は馬城。豊前国生れ。長崎遊学をへて,大学南校などでフランス学を学び,多くの法律書を翻訳。1874年(明治7)の民撰議院論争では即時開設論を主張。75年元老院少書記官となるが,翌年免官。82年自由党常議員となり,急進派を指導した。85年大阪事件をおこし重懲役となるが,89年大赦により出獄。92年東洋自由党を結成,対外硬を主張するとともに,社会問題解決にも尽力。
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…大阪で同志が逮捕されたのでこう呼ばれる。壬午軍乱(1882),甲申政変(1884)で朝鮮における親日派の後退を見た自由党左派の首領大井憲太郎は,1885年11月小林樟雄,磯山清兵衛,新井章吾,稲垣示らと謀り,壮士を率いて渡韓,事大党(閔妃政権)を倒して独立党政権を樹立する計画を進めたが,磯山の変心で発覚し一同逮捕された。計画そのものはずさんで関係者の意図もまちまちであったが,おおよそのところは朝鮮独立を達成することで国民の眼を外に転じ,刺激を与えることで内政改良へと向かわせようという点にあった。…
…他方,明治女学校で作文を教え,《こわれ指輪》(1891)などの小説を書く。大井憲太郎と恋愛し男児をもうけるが別れる。92年,のちに東京帝大総長となる古在由直と再婚。…
… 植木枝盛は自由民権の立場から,アジア諸民族の自由平等を守るべく,欧米に対する抵抗を正当化し,連帯の必要を説き,世界政府論を掲げた。大井憲太郎は,朝鮮の改革と日本の対外進出を関連させつつ,アジア諸国の〈愛国の心〉と〈自治の精神〉の誘起を図ろうとした。また樽井藤吉は,白人の侵略に共同防衛するには,〈各邦の自主自治の政をして,均平に帰せしむ〉日韓の合邦が必要だとした。…
…1892年11月,大井憲太郎,小久保喜七,樽井藤吉らが結成した政党。議会開会以来,大井らは自由党に不満をもち急進自由主義を掲げる非政社団体東洋俱楽部をつくっていたが,星亨との軋轢(あつれき)を深め脱党,〈自由軍の別動隊〉として東洋自由党を結成した。…
…また岡山に自由民権運動が波及すると女子懇親会を開くなどしたが,84年集会条例により学舎は閉鎖命令をうける。同年秋,上京し,大井憲太郎らと自由民権運動を進め,85年には朝鮮の内政改革運動に参加して資金調達などを担当し,逮捕,投獄され(大阪事件),紅一点として有名になる。89年出獄。…
…会としての一定の主義・方針はなく,内外の諸問題について意見を交換し研究することを目的としていた。満川や大川周明をはじめとする後年の国家主義運動の指導者ばかりでなく,堺利彦,高尾平兵衛などの社会主義者,高畠素之などの国家社会主義者や,大井憲太郎,嶋中雄三,下中弥三郎,権藤成卿,中野正剛など多彩な人々が参加したことに特色があった。満川が猶存社の活動に力を入れるにしたがって老壮会の活動はしだいに衰えたが,22年まで44回の会合を開き,500名をこえる参加者があったといわれる。…
※「大井憲太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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