種野山
たねのやま
麻殖郡の山間部一帯を領域とした国衙領。麻殖山とも称した。また室町期には種野山庄と庄号を付す場合もあった。種野山の名がみえる比較的早期の史料は嘉暦二年(一三二七)三月八日の種野山在家年貢等注進状案(三木家文書、以下断りのない限り同文書)で、「阿波国種野山在家員数同御年貢御公事」とある。麻殖山については元亨元年(一三二一)一一月一九日の種野山代官下知状に「麻殖山内三木村」とみえるのが早く、種野山庄については応永七年(一四〇〇)八月二四日の管領畠山基国施行状(細川家文書)に「種野山庄」とみえるのが早い。
前掲嘉暦二年の注進状案によると山内には東山・戸山・下別司・上別司・気多・中村・大浦・三木・カシ原・河井などの名があった。これらの名にはそれぞれに在家が編成されていたが、この在家は末端の年貢徴収単位としての機能を有していたとみられ、一律に課された在家役や万雑公事、夫役が在家単位ごとに賦課された。またこれらの名はおおむね近世の村に継承されており、東山名は東山(現美郷村東山)、戸山名は種野山(現同上)、下別司名と上別司名は別枝山(現同上別枝山)、気多名は桁山(現同上桁山)、中村名は中村山(現同上中村山)、大浦名は木屋平村(現木屋平村大浦)、三木名は三ッ木村(現同上貢)、カシ原名は三ッ木村のうち樫原(現同上樫原)、河井名は川井村(現同上川井)に比定される。以上の名の分布などから種野山の範囲はほぼ現在の木屋平村・美郷村の地域に比定される。
種野山の正確な成立時期は不明であるが、種野山と同様の「山」を単位とする所領が平安末期にはみえることから、当地の場合もこの頃までには成立していたと推定することができる。この「山」所領は律令制度の下では租税の賦課対象外となっていた山間地帯一帯から材木等の林産資源を徴収するために、新たに阿波国衙が設定した所領であったと推定され、阿波の場合、四国山地一帯の広大な山間地帯に成立していた。当地の領有関係にかかわって注目されるのは、鎌倉期に地頭職が京都冷泉家に伝領されていたことである(元徳元年一〇月一五日「関東下知状」冷泉家文書)。
種野山
たねのやま
[現在地名]美郷村
土井ノ
奥・
峠・
刷石・
川俣・
毛無・
土用地、
山川町
向坂・
赤岩・
浦山 現美郷村域の北西部(一部は山川町の東部にかかる)、川田川の支流種野谷川の流域山間に位置する。北は山崎村(現山川町)、西は東川田村(現同上)、南は桁山・別枝山、東は東山。中世の種野山(麻殖山ともよばれた)の遺称地で、中世種野山のうちの戸山名を中心とした地域にあたる。地内川俣で川田川に種野谷川や東山谷川が合流する交通の要衝にあたる当地は開発も比較的早かったとされ、戸山名は中世種野山の拠点であったと考えられている。嘉暦二年(一三二七)三月八日の種野山在家年貢等注進状案(三木家文書)によれば戸山名の在家は種野山惣本在家一二三宇半のうちの免在家四九宇半に含まれ、地頭名一〇宇と預名一九宇半があったが、田数と所当銭の額は不明。
天正一三年(一五八五)蜂須賀氏が阿波に入部した際、麻植山は川島城(現川島町)城番林能勝の給地となった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 