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稲村城 いなむらじょう

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日本の城がわかる事典の解説

いなむらじょう【稲村城】

千葉県館山市にあった戦国時代の平山城(ひらやまじろ)(丘城)。戦国時代の前期は里見氏の居城。白浜城(南房総市)を拠点として安房国を統一した里見義実(安房里見氏初代)は長田城(千田城、館山市)を築き居城としたが、その後1486年(文明18)ごろに新たな居城として稲村城の築城を開始、城は義実の死去後に完成した。『鎌倉大草紙』には、享徳の大乱の際、里見義実が「十村の城」から出兵したことが記載されているが、この「十村の城」が稲村城であると比定されている。その後、稲村城は義実に続き義通、実堯、義豊3代の居城となった。最後の城主の里見義豊は1533年(天文2)、正木通綱と叔父の里見実堯(義通の弟)を誅殺したことから、里見氏を二分する内乱(「稲村の変」あるいは「天文の内訌」と呼ばれる)が起こった。この内乱の発端となった誅殺は、義通の嫡子義豊が成人するまでとの約束で家督と稲村城を受け継いだ実堯が義豊成人後も家督を譲らなかったからともされるが、その背後には、北条氏や古河公方足利高基と小弓公方足利義明の対立、両勢力による房総の勢力争いがあった。義豊は上総国真里谷城(木更津市)の武田信保(恕鑑)や足利義明の支援を受けて、北条氏綱、足利高基の支援を受けた里見義堯(実堯の嫡子)と戦ったが劣勢で、翌1534年(天文3)の犬掛合戦で討ち死にした。これにより里見氏の嫡流の家系は途絶え、義堯を祖とする傍系の里見氏(後期里見氏)へと引き継がれた。義堯は稲村城を廃城として居城を滝田城(南房総市)に移し、その後、さらに久留里城(君津市)へと移した。稲村城は滝川沿岸の比高40mほどの丘の頂上と麓につくられていた城で、城跡は現在、地元の「稲村城保存会」により保存・整備が行われており、曲輪(くるわ)、堀切、土塁、切通し、虎口、横穴墓、井戸などが良好な状態で残っている。JR内房線九重駅から徒歩約10分。

出典|講談社
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