足利義明(読み)あしかがよしあき

精選版 日本国語大辞典 「足利義明」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐よしあき【足利義明】

  1. 室町後期武将。政氏の子。下総小弓城主。北条氏綱に攻められて、下総国府台(こうのだい)戦死天文七年(一五三八)没。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足利義明」の意味・わかりやすい解説

足利義明
あしかがよしあき
(?―1538)

室町後期の武将。小弓御所(おゆみごしょ)。古河公方(こがくぼう)第2代政氏(まさうじ)の子、同3代高基(たかもと)の弟。初め僧となったが、1510年(永正7)に還俗(げんぞく)する。空然(くうねん)、宗済(そうさい)、道哲などと号し、雪下殿(ゆきのしたどの)ともよばれ、12点の発給文書が残存しており、それらからみると、古河公方に準じた権限を行使している。父や兄高基と不和で奥州を流浪するが、上総(かずさ)の武田氏に迎えられ、1517年に下総(しもうさ)小弓城(千葉市南生実町)に入る。後北条(ごほうじょう)氏と結ぶ兄と対立東国に覇を唱えようとした。1537年(天文6)里見義尭(よしたか)と結び真里谷の上総武田氏の内紛干渉、翌1538年(天文7)10月、後北条氏の軍勢と下総国府台(こうのだい)で合戦し、弟基頼、子義純とともに敗死した。

[平田満男]

『『小弓御所様御討死軍物語』(『続々群書類従』所収)』『大野太平著『房総里見氏の研究』(1933・宝文堂/復刻版・1972・千葉県郷土資料刊行会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「足利義明」の意味・わかりやすい解説

足利義明 (あしかがよしあき)
生没年:?-1538(天文7)

戦国時代の武将。古河公方(こがくぼう)足利政氏の子。幼少にして僧籍に入り鶴岡八幡宮別当(雪下殿)となって,八正院空然と称した。永正年代(1504-21)後期には父政氏と対立し,還俗して義明と称し,その後まもなく道号道哲を称した。彼は上総武田氏に擁立されて,下総原氏の居城小弓(おゆみ)城を奪取し,同城を拠点に下総,上総,安房勢力を伸張し,小弓公方と尊称された。後に勢力拡大を恐れた古河公方足利高基と対立し,その子晴氏のとき,1538年下総国府台(こうのだい)で晴氏の命を受けた北条氏綱の軍勢と戦って敗死。その子孫が後に喜連川氏(きつれがわうじ)を創設した。
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朝日日本歴史人物事典 「足利義明」の解説

足利義明

没年:天文7.10.7(1538.10.29)
生年:生年不詳
戦国時代の武将。古河公方足利政氏の次男。幼少時に僧籍に入り愛松王,のちには八正院空然と称し,鎌倉府支配体制の一翼を担った雪下殿(鎌倉鶴岡八幡宮若宮別当)の地位にあった。永正期(1504~20)前半,父政氏,兄高基の抗争が続くなかで次第に政治的自立を果たし,宗斎,次いで還俗して義明と名乗った。当初兄高基と同一行動をとったが,永正13(1516)年ごろから一転して父政氏と結び,高基と対立。その間,居所は下総高柳の地にあったが,上総真里谷武田氏の要請により同15年7月ごろ下総小弓に入部し,これを機に道号道哲を称した。以後南関東諸氏統合の象徴として小弓公方と尊称され,その権力を浸透させる一方,古河公方高基との抗争を激化させた。その関係は高基の子晴氏にも引き継がれたが,その権力の限界を象徴するかのように,天文7(1538)年下総国府台において,晴氏の命を受けた北条氏綱軍と交戦し,乱戦の最中孤軍奮闘,敗死した。<参考文献>佐藤博信『小弓公方足利氏の成立と展開』

(滝川恒昭)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利義明」の解説

足利義明 あしかが-よしあき

?-1538 室町-戦国時代の武将。
足利政氏の子。僧となり,八正院空然と号したが,永正7年還俗(げんぞく)。父や兄高基と不和となり,流浪ののち上総(かずさ)(千葉県)の武田氏にむかえられ,下総(しもうさ)小弓(おゆみ)城(千葉県)にはいって小弓御所とよばれた。甥(おい)の4代古河公方(こがくぼう)足利晴氏と対立,晴氏方の北条氏綱とたたかい天文(てんぶん)7年10月7日敗死した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利義明」の意味・わかりやすい解説

足利義明
あしかがよしあき

[生]文明14(1482)
[没]天文7(1538).10.5.
室町時代後期の武将。政氏の子。下総小弓に住し,小弓御所と呼ばれた。里見氏の援助により関東制圧を目指したが,下総国国府台で北条氏綱と戦い敗死。

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世界大百科事典(旧版)内の足利義明の言及

【上総国】より

… 室町時代の上総は犬懸上杉氏の本拠となり,上杉禅秀の乱後,1418‐19年(応永25‐26)には氏憲の遺臣榛谷重氏らが平三城(市原市平蔵),坂水城(不明,夷隅郡岬町か)に拠り一揆(上総本一揆)を起こしている。戦国時代に入ると,安房の里見氏が勢力をふるい,義尭(よしたか)のとき上総に進出し,小弓(おゆみ)御所足利義明を支持して1538年(天文7)北条氏綱と下総国府台(こうのだい)(市川市)で戦ったが敗れ,義明は討たれた。このころ義尭は久留里城(君津市久留里),義尭の子義弘は佐貫城(富津市佐貫)にいて南房総を分国とした。…

【里見氏】より

…戦国時代に南房総を領国とした大名。清和源氏新田氏流。新田義重の子義俊が上野国碓氷郡里見郷に住み,里見を称したのに始まる。義俊の9代後の家基が結城合戦で討死し(1441),嫡子義実が逃れて相模国三浦に落ち,三浦氏の援助のもとに安房国白浜に渡り,以後房総里見氏の活動が始まったという。当時の安房国では長狭郡に東条氏,朝夷郡に丸氏,安房郡に神余氏,平群郡に安西氏の4豪族が分立していたが,義実は武略をめぐらせて諸豪を押さえ,1445年(文安2)安房一国を平定したと房総の諸軍記は伝えている。…

※「足利義明」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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