日本歴史地名大系 「稲村」の解説 稲村いねこきむら 長野県:南安曇郡安曇村稲村[現在地名]安曇村稲核(いねこき)梓川(あずさがわ)渓谷の右岸段丘上に立地。深い谷底の村である。稲宿・明(みよう)ヶ平(だいら)・橋場(はしば)の三集落からなる。文献上の初見は慶長年代(一五九六―一六一五)に成立した「岩岡家記」で、木曾義昌深志(ふかし)を退去の条に「いねこき口」とある。橋場の地名は対岸島々(しましま)との間にかかる橋に由来し、江戸時代には上野(うえの)組と島立(しまだち)組が橋を架けている。明ヶ平の地名は武田信玄の発見と伝えられる鉄鉱石を採掘して冥加金として松本藩へ納めたことに由来すると考えられる。稲核と橋場との間の山腹には蒲田(がまだ)遺跡があり、縄文式土器をはじめ、土師式住居跡・土師器・灰釉陶器が発見され、稲宿の上(うえ)ノ平(たいら)では縄文式土器が発見されている。 稲村いなむら 福島県:須賀川市稲村[現在地名]須賀川市稲大桑原(おおくわはら)村の南、釈迦堂(しやかどう)川西岸の氾濫原とその西の台地に立地。主集落は台地の縁に並ぶ。長沼(ながぬま)宿(現長沼町)と須賀川宿を結ぶ道、仁井田(にいだ)村から笹川(ささがわ)村(現郡山市)への道が通る。文和二年(一三五三)五月日の石河兼光軍忠状(遠藤白川文書)に稲村とみえ、観応二年(一三五一)南朝方北畠顕家に多賀(たが)国府を追われた北朝足利直義方の吉良貞家が一二月二三日浜通りを経由し当地に落ちている。なお南北朝期と推定される相馬一族闕所地注進状案(相馬文書)によれば、稲村一五貫文の地はもと相馬有胤の所領であったが、子息らが敵方についたため闕所となっていた。応永六年(一三九九)春関東公方足利満兼は陸奥・出羽両国の押えとして当地に弟満貞(稲村御所)を配置した(鎌倉大草紙)。 稲村いなむら 千葉県:館山市稲村[現在地名]館山市稲腰越(こしごえ)村の南、滝(たき)川の中流左岸にある。集落は稲村城跡の東西のふもとに発達。一(いち)ノ坪(つぼ)から拾(じゆう)ノ坪(つぼ)などの条里遺称や堀之内(ほりのうち)や要害(ようがい)などの城郭関連地名が残る。字岩井柵(いわいさく)に一六基の横穴墓群があり、ほかにも一三基の横穴墓が分布する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高四六〇石余(うち田三九〇石余)、同一五年の里見家分限帳によると廿人衆頭の本間宮内、使番の石井駿河、ほか百人衆二氏の給知。 稲村いなむら 茨城県:取手市稲村[現在地名]取手市稲北相馬台地上に位置。南は利根川、西北は野々井(ののい)村。当村付近には平将門に関する伝説が多くみられるが、「北相馬郡志」によれば将門全盛時の童謡に「和田のでぐちの、でほえぬ木、本は稲村葉は寺田、花は守谷の城に咲く、城に余りて町に咲く」とうたわれた。古代末期に成立した相馬御厨は現取手市域を含む広大な地域に設定され、中世には相馬氏がその支配権を確立し、相馬一族闕所地置文案(相馬文書)に「有胤(十郎)」として「子息等御敵也、彼跡等、高平村五十貫文 稲村十五貫文」とあり、当村は相馬有胤が支配していたが、有胤の子が南朝方にくみしたために没収されたのであろう。 稲村いなむら 福島県:喜多方市稲村[現在地名]喜多方市岩月町(いわつきまち)喜多方(きたかた)小田付(おたづき)村の北にあり、東は上田(うわだ)村、北西は下岩崎(しもいわざき)村。小田付組に属し、村の西を田付川が南流する。村内に天正(一五七三―九二)頃まで蘆名小太郎盛保が住んだとされる館跡があり、内城という地名も残っていた(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に稲村とみえ、高七六九石余。寛文五年(一六六五)の「小田付組土地帳」では高八〇七石余、免六ツ六厘四毛余、反別は田方四四町七反余・畑方二一町七反余、家数三八(竈数四三)、男一四〇・女一〇七、馬二三。綿役金一両二分・同銀四匁二厘、山役金一分・同銀三匁二分、役漆木四五本七分などを負担していた。 稲村いなむら 茨城県:西茨城郡岩瀬町稲村[現在地名]岩瀬町稲桜川左岸、岩瀬盆地の中ほどにあり、東は大月(おおつき)村、南は小塙(こばなわ)村・磯部(いそべ)村。江戸時代は笠間藩領で「寛文朱印留」に村名が載る。慶長一〇年(一六〇五)に磯部村の分村に伴い磯部村の用水代として上畑五反歩が提供され、その年貢は磯部村から藩に上納する契約が取交わされた。近世初頭の領主交替期における土地の移動・用水の保証を明示している(慶長一〇年「磯部村分村につき一札」磯部家文書)。稲村差出帳(秋山家文書)によれば、慶安三年(一六五〇)の検地で一〇九・〇四五石となり、万治三年(一六六〇)、延宝五年(一六七七)の新開検地で八斗余を打出す。 稲村いなむら 富山県:中新川郡上市町稲村[現在地名]上市町稲村上市川上流の台地上に位置する。村名は地形が鎌倉稲村ヶ崎に似ているところから相州から来た草分の道林次郎右衛門によって付けられたという(白萩小史)。当地西部にある城(じよう)山には土肥氏の城であった稲村城跡がある。正保郷帳では高二七石余、田方七反余・畑方一町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば草高三一石、免五ツ四歩、小物成は鮎川役二匁・山役七七匁・漆役四七匁・蝋役七匁・岩役一〇匁(三箇国高物成帳)。 稲村いなむら 島根県:大原郡大東町稲村[現在地名]大東町大東大東本郷(だいとうほんごう)村の東、赤(あか)川に支流清田(せいだ)川が合流する地域に位置する。正保国絵図に村名がみえる。慶安三年(一六五〇)の検地帳によると田方四町余・分米五六石余、畑方二町九反余・分米二三石余、屋敷数は御引屋敷二。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by