穆佐郷
むかさごう
鹿児島藩外城の一つで、現高岡町の南東部を占める。去川、紙屋(現野尻町)両関所の外に位置することにより、高岡郷・綾郷・倉岡郷とともに関外四ヵ郷(関外四箇所)とよばれる。高岡郷の南に位置し、近世後期の高位付では下位、鹿児島からの道程は万治年間(一六五八―六一)以降遠方に位置づけられている(「薩摩藩万留」鹿児島県立図書館蔵)。鹿児島城下からの距離は二七里、うち海路九里(「薩藩政要録」など)。
天正六年(一五七八)樺山規久は穆佐地頭に任じられたといい(樺山氏系図)、島津氏による穆佐の外城としての設置はこの頃であろうか。なお諸郷地頭系図は最初の地頭として宮丸久任(樺山広久弟)、天正八年頃の地頭として吉利刑部左衛門を記している。天正一四年三月には飯田と穆佐の間で山境をめぐる相論が起き、その裁定が飯田地頭福永宮内少輔から宮崎城主上井覚兼のもとに持込まれた。相論となった地は野崎(現田野町)で、樺山氏は同所は穆佐高城にいた野崎という名字の者が開発した地であることは野崎氏の系図により明らかなことから穆佐のうちであると主張。これに対し福永氏は穆佐の住人が開発したからといって穆佐の内とはいえないとし、同所は伊東祐尭以来飯田五町に付けて公役を四〇年間勤めてきたとして飯田のうちであると反論した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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