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本能寺の変 ほんのうじのへん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

本能寺の変
ほんのうじのへん

天正 10 (1582) 年6月2日京都本能寺に宿泊中の織田信長が,家臣明智光秀謀反にあって襲撃され自殺した事件。信長は,中国征討中の家臣豊臣秀吉を援助するため出陣途次,本能寺に滞留中であった。光秀も中国征伐友軍として西下の途中,丹波亀山城から引返して本能寺を襲った。信長は少数の手勢で防戦したが対抗できず,火を放って自刃。信長の天下統一の目的は達成されず,秀吉による全国制覇の第1歩が始った。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

本能寺の変

明智光秀は天正10年6月2日、羽柴秀吉の毛利攻めに出陣するため京都・本能寺に宿泊していた信長を襲撃、長男信忠を二条御所で自害させた。備中(今の岡山県西部)高松城毛利氏と対陣していた秀吉は急きょ和議を結んで「中国大返し」といわれる機敏さで畿内に戻ると、6月13日の山崎の戦いで光秀を破り、光秀は今の京都市南部で落ち武者狩りの農民に殺害された。

(2014-06-24 朝日新聞 朝刊 3社会)

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デジタル大辞泉の解説

ほんのうじ‐の‐へん【本能寺の変】

天正10年(1582)明智光秀織田信長を京都本能寺に襲い、滅ぼした事件。羽柴秀吉高松城攻撃を救援するため本能寺に止宿中であった信長を、先に増援を命じられて丹波亀山城にいた光秀が引き返して急襲し自害させた。

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百科事典マイペディアの解説

本能寺の変【ほんのうじのへん】

1582年明智光秀がその主織田信長を京都本能寺に襲撃した事件。光秀は,中国出陣の途中本能寺に止宿していた信長を攻囲し自殺させ,信長に代わって天下に号令せんとしたが羽柴秀吉に敗れた。
→関連項目安土城穴山梅雪織田信忠亀山清洲会議清洲城柴田勝家徳川家康豊臣秀吉福知山本能寺前田玄以森蘭丸

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世界大百科事典 第2版の解説

ほんのうじのへん【本能寺の変】

1582年(天正10)6月2日,明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自殺させた事件。羽柴(豊臣)秀吉の備中高松城攻防をめぐって織田・毛利両軍が全面的に対決する局面を迎えた信長は,とりあえず堀秀政を派遣するとともに明智光秀に出陣を命じ,みずから近臣を伴って5月29日上洛した。このとき将軍か太政大臣に任じようとする朝廷の意向に回答する予定であった。出陣を命ぜられた光秀は5月26日近江坂本城をたって丹波亀山に帰り,愛宕山に参籠して籤(くじ)を取り〈時は今あめが下しる五月哉〉という発句連歌を興行したという。

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大辞林 第三版の解説

ほんのうじのへん【本能寺の変】

1582年、毛利氏と対戦中の羽柴(豊臣)秀吉救援のため本能寺に宿泊中の織田信長が、やはり中国攻めのため丹波亀山城まで先発していた明智光秀に襲われ自害した事件。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

本能寺の変
ほんのうじのへん

1582年(天正10)6月2日、明智光秀(あけちみつひで)が京都本能寺に主君織田信長を襲って自殺させた事件。この年3月、甲斐(かい)(山梨県)の武田氏を滅ぼした信長は、帰国後、安土(あづち)など本拠地の経営を固めたり、徳川家康を招いたりした。そのあと、備中(びっちゅう)(岡山県)で毛利(もうり)氏と対陣している羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉を応援するため、6月1日、京都四条の本能寺に入った。このとき中国出陣を命ぜられた明智光秀は家臣と謀り、丹波(たんば)(京都府)亀山城を出ると兵を京都に向け、本能寺を囲んで信長を自殺させた。ついで光秀の兵は二条御所の織田信忠(のぶただ)を襲い、信忠も自殺した。このころ、信長の勧めにより堺(さかい)を見物していた徳川家康は本能寺の変を知るや、ただちに伊賀越(いがごえ)の間道をとって伊勢(いせ)路に抜け、三河(みかわ)(愛知県)へ逃げ帰った。しかし光秀も、中国陣より兵を返した秀吉と山崎(京都府大山崎町)に戦って敗走、小栗栖(おぐるす)で農民に刺殺された。
 本能寺の変の原因については諸説あるが、さだかではない。その主要なものは光秀の遺恨説である。その一つは、稲葉一鉄(いってつ)の家人斎藤利三(としみつ)がゆえあって光秀に召し抱えられることとなり、のち一鉄が光秀に利三を戻してほしいと争論となり、それにつき光秀が信長から折檻(せっかん)を受けたこと。また、武田氏攻略の際、信州(長野県)上諏訪(かみすわ)で信長から折檻を受けたこと。さらに、安土城における家康饗応(きょうおう)の際、腐敗した魚を用いたとして信長から譴責(けんせき)を受けたなど、枚挙にいとまない。しかし、根本的な原因は、信長の部将掌握が不徹底であったという限界にあろう。宣教師ルイス・フロイスは、信長について、その富、権力、身分の強大さにより、大いなる慢心と狂気の沙汰(さた)に陥ったといい、本能寺の変について、瞬時にして信長は地獄に落とされ、悪魔に対する奉仕の報いを受けるに至ったと述べている。[北島万次]
『田中義成著『織田時代史』(1924・明治書院/講談社学術文庫) ▽高柳光寿著『明智光秀』(1958・吉川弘文館) ▽ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太編訳『回想の織田信長』(1973・中央公論社)』

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世界大百科事典内の本能寺の変の言及

【明智光秀】より

…彼は故実・典礼に通じ,民政にすぐれ,茶湯・連歌を好む理性的で教養豊かな武将だったところに特色があり,1579年誠仁(さねひと)親王の二条御所移徙(いし),81年京都馬揃の奉行を務め,また1573年越前の支配を行い,80年大和の寺社本所領指出(さしだし)を,81年丹後の検地を実施する一方,精緻(せいち)な軍法を制定した。そして82年春甲州征伐に従軍,5月徳川家康・穴山梅雪の接待を命ぜられ,つづいて中国征伐を支援するため出陣を命ぜられたので亀山において軍容を整え,6月1日夜出発したが,翌2日黎明信長を京都本能寺に襲い,織田信忠を二条城に囲んで敗死させた(本能寺の変)。この行動は信長の虚を突いた絶妙の作戦であったが,予想外に早く反撃してきた羽柴(豊臣)秀吉に山城山崎の戦で敗れ,逃走の途中小栗栖(おぐるす)で土民に殺された。…

【伊賀者】より

…戦時には間諜,斥候を任務とし,平時には雑役に服した下級の士。1582年(天正10),当時上洛して泉州堺にあった徳川家康が本能寺の変に遭遇し,急きょ難をさけて領国三河に帰還する途中,その〈伊賀越〉に身辺警護の功があって召し出されたという由緒をもつ。このときに伊勢路まで供奉した者は直参に取り立てられ,鹿伏兎越(かぶとごえ)(伊賀越)まで供奉して途中から帰国した者200人は服部半蔵正成に預けられて伊賀同心と称し,のち百人組4組のうちの伊賀組や先手(さきて)の諸隊の同心となった。…

※「本能寺の変」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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