立木村(読み)たちきむら

日本歴史地名大系 「立木村」の解説

立木村
たちきむら

[現在地名]茂原市立木

台田だいだ村の東に位置する。北端を東流する鶴枝つるえ川では、かつて鶴舞つるまい大豆だいず富士根ふじねの各字に接する部分を鶴舞川・大豆川・富士根川とよんでいた。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に立木村とみえ、高六一五石。寛永二年(一六二五)一五石余が旗本富永重利、同一三年三〇〇石が同朝比奈昭、同一五年三〇〇石が同土岐頼泰に宛行われた。以後、富永・土岐領は幕末にまで続いたと思われる。朝比奈領は文政一〇年(一八二七)朝比奈貫一郎の放蕩な生活が原因とみられる改易によって幕府領となるが、天保二年(一八三一)旗本水野領、同一二年幕府領、同一四年鶴牧藩領となって幕末に至る。高橋家は貞享五年(一六八八)に当村のものと思われる名主役の肩書がみえ、寛政五年(一七九三)以降は代々名主を継承し、文化一三年(一八一六)には領主朝比奈舎人より帯刀を許された。文政年間東のさん村の百姓が先納金の手当として高橋家より借金したが滞り、同一三年高橋家は三ヶ谷村領主の旗本石丸氏へ金一〇〇両を献金したことにして借金を帳消しとし、石丸氏より帯刀二人扶持を許されている。天保二年から旗本水野領の名主役を勤め、同時に水野領六ヵ村の割元名主に任命され、幕府領時代を経て、同一四年に鶴牧藩上総東領五六ヵ村の大庄屋となり、慶応四年(一八六八)まで広範な村政にたずさわった。


立木村
たてきむら

[現在地名]朝日町立木

朝日川に沿った谷に集落が散在し、下流は石須部こくすべ村・太郎たろう村。正保郷帳に田方一五三石余・畑方五三石余とある。慶安二年(一六四九)以降松山藩領。西五百川にしいもがわ八沼やつぬま組に属し、宝暦八年(一七五八)の左沢御領知村高組訳書抜帳(松山町教育委員会蔵)に高二一六石余、軒数五五・人数二二五とある。置賜おきたまから湯殿山への参詣道にあたり、口留番所が置かれた。


立木村
たつぎむら

[現在地名]小山市立木

おもい川両岸にあり、東は渋井しぶい村、西は卒島そしま村。天文五年(一五三六)と推定される一一月二七日の小山高朝伊勢役銭算用状写(佐八文書)に小山領上郷分「たつき」とみえ、伊勢役銭のうち七貫二〇〇文を負担していた。慶長三年(一五九八)小山領上立木村内一一九石余と下立木村内五四石余が、結城秀康から清水長左衛門へ宛行われた(「結城秀康知行宛行状写」譜牒余録)。慶長年間小山藩領となる。同一五年村内二〇石余が小山町祇園社(現須賀神社)へ寄進された(「本多正純寄附状」須賀神社文書)。元和五年(一六一九)下総古河藩領となり、元禄七年(一六九四)幕府領、同一〇年宇都宮藩領となる。宝永七年(一七一〇)幕府領に復し、享保九年(一七二四)以降旗本大久保領。


立木村
たてきむら

[現在地名]板柳町福野田ふくのだ

南東横沢よこさわ村、南西板屋野木いたやのき村、北は福野田村に接する。陸奥国津軽郡村仮名付帳(市立弘前図書館蔵)は「たてき」、「新撰陸奥国誌」は「たつき」と訓ずる。

貞享元年(一六八四)の郷村帳に九六・四石とあり、寛文四年(一六六四)以後の新田とされる。貞享四年の検地帳は田方一一町四反一畝七歩、畑方三町五反四畝一歩、田畑屋敷合せて一四町九反五畝八歩、村高一三〇・二五五石、百姓二四人と記す。


立木村
たつぎむら

[現在地名]利根町立木

新利根川北岸に所在。対岸は福木ふくのき村。古くから開けた地で、縄文時代立木貝塚、式内社のみつち神社、鎌倉時代創建の円明えんめい寺などがあり、村域から永仁年間(一二九三―九九)や貞和五年(一三四九)などの銘がある板碑十数基が発見されている。当村は新利根川に接しているため用排水の問題でしばしば隣村との対立が生じ、また寛政五年(一七九三)には流作場開発問題で「立木三義人」事件が起こった(→新利根川

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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