十二所神社(読み)じゆうにしよじんじや

日本歴史地名大系 「十二所神社」の解説

十二所神社
じゆうにしよじんじや

[現在地名]大子町内大野

大野川の左岸際の森に鎮座祭神は天合命。旧村社。源頼義の創建で文明四年(一四七二)源義種が再建して正遷宮をなし、大野村の鎮守としたという。古くは立野神社と称した。天明六年(一七八六)の「書上申一札之事」下書(石井孝信氏蔵)に、

<資料は省略されています>

とある。

十二所神社
じゆうにしよじんじや

[現在地名]本山町本山 富山

本山の南部、田井たい山の北東麓の小高い地に鎮座する。祭神は伊弉冊尊・速玉之男命・事解之男命・天照大神など熊野一二神。旧郷社。

創建年次は不詳だが、当初、長徳ちようとく寺の鎮守社の一で、白髪しらが神社・若一王子にやくいちおうじ宮と並ぶ神社であったという。社名は承元三年(一二〇九)三月五日付の長徳寺文書(蠧簡集木屑)に「十二所白我供僧永儀供田弐町」とみえる。応安七年(一三七四)一二月一五日付信濃守八木下文(同文書)に「白我・十二所・若王子」の名がみえ、長徳寺院主職に含まれていたと思われるこの三社を統轄する惣一職に、清高女なる者を補任している。

十二所神社
じゆうにしよじんじや

[現在地名]広瀬町富田

新宮南しんぐうみなみ谷に鎮座する。祭神伊邪那美命・速玉男命・事解男命。旧村社。中世に紀州熊野の新宮(現熊野速玉大社)からこの地に十二神を勧請し、新宮の産土神としたと伝え、旧号を熊野新宮十二所神社という。富田とだ城の鬼門鎮護社として崇敬されたが、尼子氏滅亡で衰退した。天正一七年(一五八九)毛利(富田)元秋らによって再建され、七石の社領が寄進された。さらに元和八年(一六二二)堀尾忠晴によって再興修復されたという(「十二所神社由緒記」社蔵)

十二所神社
じゆうにしよじんじや

[現在地名]横須賀市芦名一丁目

芦名あしな城跡西方にあり、前方は海岸、背後は低い台地となる。創祀年代は明らかでないが、古来十二天じゆうにてん明神と称され、芦名城の鎮護として祭祀されたといわれる。「吾妻鏡」寿永元年(一一八二)八月一一日条によると、佐原十郎義連が源頼朝の命により、頼家誕生の祈祷として「三浦十二天」に奉幣した。天正一九年(一五九一)社領二石の朱印を受けた(相中留恩記略)。文政二年(一八一九)三月一三日、領主の会津藩主松平肥後守容衆は、領中の安全祈願のため、石沢義則に命じて祭文を献じた。

十二所神社
じゆうにそじんじや

[現在地名]鎌倉市十二所

県道金沢―鎌倉線脇に鎮座し、社前から旧朝比奈あさひな切通へ分岐する道がある。祭神は天神七柱・地神五柱。旧村社、十二所の氏神。勧請年月未詳。天保九年(一八三八)の十二所社再建記(鎌倉近世史料)によると、もと光触こうそく境内にあり、熊野十二所権現と称する鎮守で、室町期の兵火で荒廃し小祠を営んだという。貞享二年(一六八五)刊の「鎌倉志」に「熊野権現小祠、堂ノ前ニアリ」とみえ、社地の道が険しく狭いので、天保九年別当明王院の住持明本恵法が現在地へ移したという(再建記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「十二所神社」の解説

十二所神社

群馬県太田市別所町、円福寺本堂の西側茶臼山古墳後円部の墳頂付近にある神社。「新田荘遺跡」として国の史跡に指定されている。創建年代は不詳だが、祀られた16体の神像のうち5体には正元元年の銘がある。

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