日本歴史地名大系 「立野ヶ原」の解説 立野ヶ原たてのがはら 富山県:東礪波郡城端町立野ヶ原袴腰(はかまごし)山から北へ延びる尾根は桜(さくら)ヶ池の南方まで続く。この尾根の東側には山田(やまだ)川、西側には打尾(うちお)川が北流し、小矢部(おやべ)川に注ぐ。桜ヶ池から北へ約三キロにわたって、城端町・福光(ふくみつ)町にかけて広がる丘陵が立野ヶ原である。新生代第三紀洪積層からなり、東西は約二キロ、南部が高く、標高は一二〇―二六〇メートル。東西方向に複雑な起伏がある。近世には周辺に東に西原(にしはら)・原(はら)・塔尾(とうのお)・千福新(せんぶくしん)・経塚野(きようづかの)・大西新(おおにししん)の各村、西に七曲(ななまがり)・立野新・土生新(はぶしん)・大西(おおにし)(現福光町)の各村があった。地名の由来は、草地として存在する野原、すなわち秣場・萱立場という意味であろう。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
日本大百科全書(ニッポニカ) 「立野ヶ原」の意味・わかりやすい解説 立野ヶ原たてのがはら 富山県南西部、南砺市(なんとし)にある洪積台地。江戸時代は加賀藩の鷹狩(たかがり)場で、明治中ごろからは金沢第九師団の演習場であった。第二次世界大戦後、開拓地として入植され、タバコやダイコンなどの野菜の栽培や酪農が行われている。灌漑(かんがい)用の桜ヶ池周辺はレクリエーション地域でもある。[深井三郎][参照項目] | 洪積台地 | 鷹狩 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例