日本歴史地名大系 「竹井村」の解説 竹井村たけのいむら 福岡県:三池郡高田町竹井村[現在地名]高田町竹飯(たけい)海津(かいづ)村の東、飯江(はえ)川の右岸にある。山門(やまと)郡に属する。隆起扇状地竹井原の扇端にあたる。弘安九年(一二八六)閏一二月二八日の蒙古合戦并岩戸合戦勲功地配分注文(比志島文書/鎌倉遺文二一)にみえる「筑後国竹井庄」の遺称地とされる。康永二年(一三四三)五月には南朝方の中院侍従(義定)・菊池武茂・大城藤次らの拠る「筑後国竹井城」を鎮西管領一色道猷の軍勢催促に応じた龍造寺氏・荒木氏ら肥前・筑後などの国人衆が攻撃し、七月二日夜にようやく陥落させた(康永二年七月五日「龍造寺家平軍忠状」龍造寺家文書/南北朝遺文(九州編)二など)。同年七月四日の荒木家有軍忠状(近藤文書/南北朝遺文(九州編)二)には「竹井萱津城」ともみえる。 竹井村たけいむら 岡山県:上房郡賀陽町竹井村[現在地名]賀陽町上竹(かみたけ)・竹荘(たけしよう)有納(ありのう)村の北東に位置し、宇甘(うかい)川流域に開ける。北にある貞(さだ)村の北方に枝村上岩(かみいわ)村がある。応安六年(一三七三)八月一五日の沙弥明栄譲状(県立博物館所蔵文書)に「竹井村」とみえ、明栄が勲功の賞として拝領した同地が「孫須々木さいわう」に譲られている。慶長六年(一六〇一)木下家定に与えられた二万五千石のうちに「竹庄」一千三一五石余がある(「徳川家康宛行状」足守木下家文書)。 竹井村たけいむら 京都府:船井郡園部町竹井村[現在地名]園部町竹井明治九年(一八七六)篠田(しのだ)村・摩気(まけ)村・上新江(かみにえ)村が合併して成立した村。東は下新江村と宍人(ししうど)村、南は上天引(かみあまびき)村・下天引村、西は多紀(たき)郡(現兵庫県)、北は北八田(きたはつた)の笹尾(さそ)村(現丹波町)。北から西・南にかけて比較的高い山に囲まれる。園部川の上流天引川が中央部を北東に流れ、上流側から上新江村・摩気村・篠田村と並ぶ。篠山街道が摩気村を東西に走る。三村ともに園部藩領で、篠田村の村高は元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳で四三石余、天保郷帳では七九石余と二倍近い数字が記される。幕末の家数一二、人口五二、牛三匹(「口丹波風土記」所引園部藩記録)。 竹井村たけいむら 山形県:米沢市竹井村[現在地名]米沢市竹井川井(かわい)村の東に位置し、羽黒(はぐろ)川扇状地東縁平地と緩丘陵に立地し、天王(てんのう)川が北流する。戦国時代は屋代(やしろ)庄のうちの竹井郷。永正八年(一五一一)七月五日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)によれば、山岸淡路守よりの買地である長井屋代庄竹井郷のうち「中里在家」一宇を牛越又七に安堵している。天文七年(一五三八)の段銭古帳によれば、屋代庄「たけい」から五貫文を納め、別に近世に竹井村に含まれる「中の目」から七貫七五〇文を納めている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by