日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹田黙雷」の意味・わかりやすい解説
竹田黙雷
たけだもくらい
(1854―1930)
明治・大正時代の臨済(りんざい)宗の僧。嘉永(かえい)7年7月2日、壱岐(いき)国(長崎県)に生まれる。諱(いみな)は宗淵(そうえん)、別号は左辺亭(さへんてい)。大陽庵(たいようあん)の良堂について出家、国分寺の洪堂(こうどう)、福岡県博多(はかた)崇福寺(そうふくじ)の蘭陵(らんりょう)に師事、亀井南溟(かめいなんめい)に漢学を学ぶ。のち上洛(じょうらく)し妙心寺の越渓守謙(えっけいしゅけん)(1810―1884)、美濃(みの)(岐阜県)正眼寺の泰竜(たいりょう)、梅林寺の東海猷禅(とうかいゆうぜん)(1841―1917)に歴参、猷禅の印可を受けた。荻野独園(おぎのどくおん)(1819―1895)の信任を得て建仁(けんにん)寺禅堂再建の任につき、1892年(明治25)建仁寺派管長となり、高台寺本堂、建仁寺の山門ほか諸堂を建立し、寺勢の振興に努めた。昭和5年11月15日示寂。『黙雷禅話』『暗号密令』『暗号密令拾遺』などの著がある。
[金田諦応 2017年9月19日]