日本歴史地名大系 「竹部村」の解説 竹部村たけべむら 熊本県:熊本市竹部村[現在地名]熊本市坪井(つぼい)四丁目・薬園(やくえん)町・子飼本(こかいほん)町・黒髪(くろかみ)一丁目・同二丁目南は豊後街道に面し、北と西は坪井村に囲まれ、東は宇留毛(うるげ)村に接する。しばしば建部とも記され、武部と記されることもある。近世初期以来坪井村の小村で、江戸時代中期に独立したが、明治四年(一八七一)にはまた坪井村に含まれた。そのため村境や村域の確定が困難である。寛永郷帳では坪井村に含まれ、「国志草稿」の坪井村の項に「東坪井村南坪井村竹部村古閑村等ノ小村アリ」とある。「郡村誌」の坪井村の項に「本村元竹部村ト一村タリ、宝暦ノ頃、坪井・竹部両村ニ別ル」とあり、宝暦一三年(一七六三)の地引合帳や下ケ名寄帳には「坪井村・竹部村」とあり、各村高が記され、庄屋が一名ずついるので、竹部村として独立したことは明確である。明治初年の旧高旧領取調帳にも竹辺村とあるし、明治六年の白川県肥後国熊本全図(県立図書館蔵)にも建部村・建部村屋敷とある。〔村域〕中世の武(竹)部村の領域を推定させるものとして、建永元年(一二〇六)八月日の沙弥行西長浦遠貞譲状(詫摩文書)に「一所武部桑薗」とあり、その四至が「限東車大路 限南池上領庄境 限西田 限北橘山卅一坪南縄」と記される。東の車大路(くるまおおじ)は古代の官道で、現在の県立済々黌高等学校東側、熊本大学グラウンド西側を通り、上河原(かみかわら)に至る道と推定され、近世の宇留毛村との村境道でもあった。南の「池上領庄」は明確でない。しかし近世に竹部村に所属する寺院で考えると、宗心(そうしん)寺・久本(きゆうほん)寺が最も南にあるので、この二寺を結ぶ線、すなわち豊後街道とその西の延長が考えられる。北の「橘山卅一坪南縄」も不明である。 竹部村たけべむら 岡山県:御津郡加茂川町竹部村[現在地名]加茂川町竹部宇甘(うかい)川の支流加茂川の上流に位置する。備中国賀陽郡に属し、北は同郡上野(うえの)村、東は備前国津高(つだか)郡広面(ひろも)村。古くは上野村と一村で皆竹部(かいたけべ)村と称した。慶長六年(一六〇一)三月、木下家定(備中足守藩祖)に「かい竹部村」六六〇石が与えられた(「徳川家康宛行状」足守木下家文書)。のち上野村を分離したが村名は変わらず、寛永備中国絵図にも皆竹部村とあり、高三六七石余。正保郷帳でも村名・石高は同じで、枝村として枕村・延原村・袖村・東村をあげる。正徳四年(一七一四)の備中一国重宝記には竹部村とあり高六三四石余、庄屋は上野村六右衛門の兼帯。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by