デジタル大辞泉
「車大路」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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くるま‐おおじ‥おほぢ【車大路】
- 中世頃の京都の道路の名。
- [ 一 ] 粟田口(あわたぐち)三条の十禅師の辻(今の三条広道付近)から黒谷の門前に至る南北の通。一名、鳥居大路。今日の広道がこれにあたる。近年は、岡崎通という。
- [ 二 ] 昔の五条通、今の松原通の鴨川以東の部分をいうか。この道は清水坂(きよみずざか)に連なり、古くから清水寺の参道であった。
車大路の補助注記
[ 一 ]について「京都坊目誌」には、「広道古へ南にて鳥居小路と云ひ、北にて車大路と云」としている。森幸安の「中古京師内外地図」には、車大路を「東大路」と書いている。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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車大路
くるまおおじ
立田山西山麓から白川沿いの蚕養駅に至る古代から鎌倉中期頃までの官道。現在その道を確認することはできない。建永元年(一二〇六)八月日の沙弥行西(長浦遠貞)譲状(詫摩文書)にみえる鹿子木東庄内橘村と武部桑薗の東限は車大路であった。橘村は現熊本市室園町付近、武部桑薗は現黒髪二丁目・三丁目周辺とみられている。また「延喜式」(兵部省)の肥後国駅家のうち、北の高原(現鹿本郡植木町舞尾)と蚕養の駅家がこの大路に置かれたとされ、蚕養駅付近で白川を渡り、肥後国府(現熊本市国府本町)の一条通に結びついたと思われる。
車大路
くるまおおじ
「吾妻鏡」寿永元年(一一八二)六月八日条に、源頼朝が加藤景廉の車大路の家に病気見舞に行き、次いで小坪(現逗子市)の小中太光家の家に寵愛していた女性亀前を訪ねたと記しており、大倉の幕府から小坪に行く途中に車大路のあったことをうかがわせる。同書にはまた安貞二年(一二二八)一〇月一五日、将軍藤原頼経が小山朝政の車大路の家に行ったこと、建長四年(一二五二)五月一七日条には、将軍宗尊親王の方違に際して、執権北条時頼の家の「正南」にあたる小山長村の車大路の亭が候補地となったことを記している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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