久本寺(読み)くほんじ

日本歴史地名大系 「久本寺」の解説

久本寺
くほんじ

[現在地名]上屋久町宮之浦

宮之浦みやのうら集落の西部に位置する。長遠山と号し、法華宗(本門流)本尊日蓮聖人像。開基種子島時氏が摂津本興ほんこう(現兵庫県尼崎市)の日増を開山として創建したと伝える(久本寺旧記)。寛永一〇年(一六三三)の洛陽本能寺末寺帳では京都本能寺の直末、天明六年(一七八六)の法華宗勝劣派本末帳では本能寺・本興寺両寺直末寺院として寺名がみえる。近世には屋久一島の祈願所・菩提寺で、屋久権現(現益救神社)別当寺も勤めていた。享保一六年(一七三一)火災で堂宇を焼き、宝物・記録などが失われたので、島中の寺の由緒がわからなくなったといわれる。本堂は同一八年に再建された。

久本寺
くほんじ

[現在地名]白根町下今諏訪

釜無川右岸の堤防の外、若草わかくさ町との境近くに位置する。妙栄山と号し、日蓮宗。本尊十界曼荼羅。縁起によれば、開基は日蓮の直檀久本坊日元。古くから当地に観音堂があり、安倍貞任の一族の女性が落延びて、この観音堂で一子を産んだという。その子孫の安部六之進久友が弘長年間(一二六一―六四)日蓮の教化により帰依し、久本坊日元、妻は秀栄日久と法諱を授けられたという。夫婦の没後長子の日進は開山となり、観音堂の地に一宇を建て、父母の法諱より秀栄山久本寺と名付けた。日進は正和二年(一三一三)身延山住持三世となり、元応二年(一三二〇)には弟の日善(久本寺二世)が身延山四世を継いだ。

久本寺
きゆうほんじ

[現在地名]熊本市薬園町

国道五七号の子飼こかい橋交差点の西約五〇メートルの北側に位置する。現在は寺地が狭められ寺の前は駐車場・商店となっているが、もともとは豊後大津おおづ往還(現国道五七号)に面し、北裏側もひがしノ丁に接していた。大覚山と号し、法華宗、本尊は宗祖奠定の十界。「国誌」は「寛永九年忠利君御入国ノ時、小倉妙善寺ノ僧円蔵院日慶当国ニ来リ、新坪井町裏ニ地子地ヲ求メ、依願当寺建立之、今ノ宗巌寺、其地ナリ其後住僧地替ノ願有リ、延宝八年立田口構ノ外ニ移シテ造立ス(中略)柏原新左衛門定治同子要人定常菩提所タルニ依テ要人自家新地ノ内百石正徳元年七月願ニ依テ寄附ス」と記している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報