中国,西晋時代の僧。敦煌の人。竺曇摩羅刹,敦煌菩薩,月支菩薩とも称された。数代にわたって敦煌に定住した月支の末裔で,幼少のころから六経などの中国の古典を博く学習した。彼の生きた時代は,インドではクシャーナ王朝治下で大乗教が興隆し,大乗経典が陸続と創作されていた。一方,中国では西晋末,中原が混乱した政治状況にあったが,中国仏教がようやく勃興しようとしていた。しかし当時の中国仏教界は,訳経を重んずることなく,多数の大乗経典はインドおよび中央アジアから伝来しないままになっていた。これに発憤した竺法護は,師の竺高座とともに西域諸国を遊歴して諸言語を習得し,経典の原本を収集して長安に帰った。中国各地の熱心な僧俗の帰依者,たとえば長安の聶承遠,聶道真父子のような帰依者の助力を得て,あるときは都市に出,あるときは山間に逃避しつつ,多数の重要な大乗経典を翻訳・宣教しつづけた。竺法護は,40余年にわたって100部におよぶ経典を翻訳しつづけた大訳経家であったが,彼の訳した《光讃般若経》《法華経》《維摩(ゆいま)経》《首楞厳(しゆりようごん)経》などの諸経を改訂するところにクマーラジーバ(鳩摩羅什)の訳経活動の最初の使命があったことから推しても,〈経法の中華に広流する所以は護の力なり〉(《出三蔵記集》)というのは過言ではない。
執筆者:荒牧 典俊
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中国、西晋(せいしん)時代の訳経僧。敦煌(とんこう)出身のため敦煌菩薩(ぼさつ)と尊称された。「竺」を冠したのは師の竺高座にちなむ。法護は曇摩羅察(どんまらさつ)という音写語からダルマラクシャDharma-rakaであったことがわかる。月氏系帰化人の末裔(まつえい)として敦煌で生まれ育ったが、中国語や中国の古典にも精通していた。出家するや師に伴われて西域(さいいき)三六国を遊歴し、西域諸語を身につけ、多数の西域語仏典を携えて敦煌に帰った。その後、敦煌のほか酒泉、長安、洛陽(らくよう)などで大小乗にわたる仏典150余部を翻訳した。翻訳活動が40年以上に及び、しかも彼のおもな訳経・宣教の地が長安と洛陽であったため、この地域の仏教化に多大の貢献をなした。『光讃般若経(こうさんはんにゃぎょう)』『正法華経(しょうほけきょう)』『維摩詰経(ゆいまきつきょう)』などの大乗仏典、『普曜経(ふようきょう)』『生経(しょうきょう)』などの小乗仏典がとくに有名である。鳩摩羅什(くまらじゅう)以前の訳経を古訳(こやく)と称するが、竺法護は古訳時代を代表する偉大な訳経三蔵である。
[岡部和雄 2017年2月16日]
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…3世紀になると,敦煌は仏教の東漸ルートの陸港ともいうべき位置にあったため,インドや西域からきた僧侶がいったんはここに落ち着くようになった。訳経僧で〈敦煌菩薩〉と称された竺法護のように,敦煌生れの僧侶もでてきたのである。4世紀初めから5世紀半ばにかけての五胡十六国時代には,河西の通廊地帯に小政権がつぎつぎに興亡した。…
※「竺法護」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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