笠井村
かさいむら
[現在地名]浜松市笠井町
天竜川右岸に広がる沖積平野に位置し、北と西は笠井新田村、東は豊田郡石原村・羽鳥村・恒武村。天竜川の旧中洲にあたる。室町期の史料には笠井庄がみえ、近世には六斎市の笠井市が立ち、一部町場化して賑わった。松平忠頼領郷村帳では高三三二石余、田九町余・畑三〇町余、ほか法永寺領一〇石余・定明寺領三石、八幡領・大明神(現春日神社)領五石。元和五年(一六一九)の池田川西代官所高帳には高三三二石余のほか、見取午ノ納米として二石余とある。領主の変遷は西村と同じ。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳では家数八九、うち役家六六。享保四年(一七一九)の国領組諸色覚帳(岡部家文書)には皆畑とあり、本田三六八石・新田三四石余。家数一一二(うち本百姓七六)、人数七五六(うち山伏八・大工一・鍛冶二・紺屋一・医師一)、馬六。
笠井村
かさいむら
[現在地名]額田町井沢
村域を西に流れる乙川支流の大法川と、北西に流れる大栗川との合流点北側の山の斜面に集落が立地。耕地は主として深い谷間に開かれ、大法川沿いに作手中道が通っている。周囲は標高四〇〇から六〇〇メートルの山で囲まれ、東南は木下村、西は竹沢連村、北は上毛呂村・下毛呂村と山で接する。
中世、日近庄中山郷に属したという。戦国期末は奥平氏領に含まれた(奥平氏家譜)。天正一八年(一五九〇)岡崎城主田中吉政領、慶長六年(一六〇一)に幕府領。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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